わかりあえるはずだ、という病 ~ちょっとひどいお話の2

 

 「人と人は分かり合えるはずだ」というのは、よくアニメの中で主人公が口にしていますが、現実の問題として「分かり合えない」と私は回答を出します。

 

 何故ならば「分かり合えるはずだ」と現実を無視して理想を人や社会に押し付けると、「人と人は分かり合えるはずなのに、それを受け入れないお前はクズだ、以下しちゃおけない!」と相手を全否定したり、殺戮に至ります。

 

 

 

 「ハマーン・カーン、わかった。お前は生きていちゃいけない人間なんだ!」

 

 そもそも戦場で敵と味方に分かれて殺し合いをしているのだから、というお話はともかく、基本人と人は住んでいる場所や立場、生まれ育ってきた環境から積み上げてきた仕草や価値観が異なりすぎた場合、分かり合えるはずもないのです。

 

 ならばどうすればいいのかというと、お互いに距離を取るのが一番だということです。

 

 そこで一歩踏み込んだら分かり合える、という願望が不幸や悲劇を生みます。

 

 

 フランスの国旗には3つの意味があります。有名ですがあえて掲載しますと

 

「自由、平等、博愛」です。

 

 ですが、3つ目の博愛は誤訳に近いものがあり、実際は「フラテルニテ」です。

 

 意味するところは「己の欲せざる所は人に施すなかれ。常に、自分がされたいと思う善事を他者に施すように」です。

 

 どこかで聞いた覚えがありますが、大陸の東端から西端に渡ったと考えても筋は通ります。

 

 

マンガ『論語』完全入門 (講談社の実用BOOK)

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 「己の欲せざるところ人に施すことなかれ(己所不欲、勿施於人)」

 

 

  出典は忘れましたが、実際の意味合いとしては「お互いに距離をとって、相互に干渉しないようにしましょう」というのが、実情だったようです。

 

 

 すると、住むところも価値観も異なる物同士が一つになれるはずもなく、それをもしも実践しようとすれば、フランスで理性主義を学んだポル・ポトの悪夢が誕生するわけです。

 


ポルポト Pol Pot - YouTube

 

 

  • 実社会のあるお話

 話が大げさすぎるので、少し私達のスケールに話を戻しますと、こんな話があります。

 

 狭い道を猛スピードで追い越して走る車がありました。私の車の対向車線を走っている車でしたが、車線を飛び出して走ってきたため、危うくぶつかるところでした。

 

 一瞬その運転手に怒鳴ろうと思いましたが、もう相手は私のはるか後方を走っていました。

 

 ですが、私は何故怒ったのだろうかという思いにとらわれました。

 

 理由を考えると「危ないから」なのですが、事故を起こしてないから別に問題はないはずです。

 

「不愉快にさせられた」。これは近いですが、まだ正解ではない気がします。

 

「常識がないから、信じられないから」。こちらに行き着きました。

 

 つまり、私は危険運転を行う運転手が、私のような安全運転を行うドライバーの常識とかけ離れているから怒ったのだと気付きました。

 

 私の友人に峠を攻めて走ろうとする人がいますが、彼は峠を猛スピードで走って対向車線に飛び出して危うく事故を起こすところでした。

 

 彼も私も発達障害なのですが、私は自分が運転が下手だと認識しているのと、自己を起こせば全てが失われたり、それによって時間や労力がかかると分かっています。

 

 ですが彼は、それよりも自分の運転技術を確かめたり、スピードのスリルを楽しんで優先しているわけです。

 

 別に彼が害悪であると言いたいわけではないですが、私は「分かり合えないから距離を置きたいし、彼の車には二度と乗りたくはないな」と思い、それ以降は彼の車に乗ってません。

 

 

 

 世間における交通事故のほとんどが、不注意によるものが多いわけですが、中には上に記したような人もいます。

 

 そうした危険な運転を行う「非常識」な人に遭遇すれば、大抵の人は「信じられない」と怒りを露わにするでしょう。

 

 ですが、何故怒るのかと考えると、「相手が自分と同じ価値観を持ってないから」に至ると思うのです。

 

 つまり、相手に自分と同じことを求めるわけです。

 

 別にこれは命がかかったことなので、間違った考えではないですし、共有されていますから問題はないです。

 

 ですが、寝不足で運転をした場合はどうでしょうか。これも厳密に言えば悪いことですが、事故を起こさなければいいでしょう。ただ、相手が迷惑を被る事は間違いないですが。

 

 そうした不快な人に出会った時に、怒りを覚えるのは、相手が自分と同じ「常識」を持った人を期待するからなので、そこで「相手は自分と違う」と思えば楽になれると私は思います。

 

  • 人は虫けらと同じ

 

 ですが、それでも中々怒りが収まらない事案は出てきます。そんな時、心の中で「相手は人としての常識を持っていない虫けらか犬」と思えば楽になれます。

 

 同じ人だから怒りを覚えるのであり、それが人でないと思えば楽になれます。

 

 無論、私も虫けらであるということを受け入れないと、「自分以外は虫けらだ」と思っていたことを暴露して、バッシングを受けたオタク評論家に堕ちますが。

 

 先日私が書いたブログで「犬や猫の考えは推し量れない」と書きましたが、人についてもそれは言えると思います。言葉を通じて分かり合えると錯覚を覚えるから、そうした怒りが生じるわけなので、「分かり合えないし、考えもわからない犬や猫と同じだ」と思えば、他人に対して期待をしすぎたり、絶望もせずに済むと私は考えます。

 

 もっとも、それはオープンにしていいものかとは思います。

 

  • 最後に

 

 岩崎弥太郎翁は、サービス業として頭を下げることを社員に教える際に「人だと思うからしんどいのだ。お金に頭を下げると思えばいい」と教えましたが、本質はそこに行き着くと思います。