「~だろう、常識的に考えて」という危うさ


 「~だろう、常識的に考えて」という考え方って、とても危ういなと最近思います。


常識的に考えてとは (ジョウシキテキニカンガエテとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

 私は昨日電車の中で「非常識」な人を見かけました。「非」って言葉がつく場合、大抵は相手をdisるときに使うわけですが、何故私はその非常識な人に内心怒ったかというと、「横並びの席で手前側に座るなんて、なんて非常識な。他の人が座りにくいのに」と思ったからです。


 実に器が狭いですね。

 
 ただ、この「非常識な!」という言葉の裏には「自分とは違う彼は、私の思い通りになるべきなのに!」という無自覚な傲慢さが潜んでいます。


 常識って、各人が異なる家庭環境や異なる地域で育っている事を考えると、各人でそれが異なるわけです。


 故に二次障害の多い発達障害者は、かなりの確率で認知や常識が世間のそれと異なる可能性が高いわけで、それだけに「感謝の言葉や挨拶をきちんとしましょう」と、訓練所で指導するのだと推察されます。


 
 話を常識の持つ無自覚な傲慢さに戻しますが、その思い通りにならない「非常識な他人」に対する怒りを我慢できない時に、相手に怒りをぶつけるわけですが、その怒りにしても、ストレス負荷の高い満員電車や泥酔状態だと、その怒りの放出のハードルが下がりやすいと考えられます。


 すると、「この非常識な!」という、怒りの理屈や建て前も、自分の心理状態やストレスによって誘発されていると考える事が可能になります。

 

 つまり、自分の自由意思で怒ってるのではなく、電車に乗る直前の自分の心理状態と、電車内のストレス負荷状態によるということになります。


アンガーマネジメント 怒らない伝え方

アンガーマネジメント 怒らない伝え方


また、先ほど書いた「常識」という概念も危うくて、私の母みたいに、あまり育ちのよろしくない雲助の娘という成り上がりが、世間に出ないでなんでも自分の思い通りになる環境で育つと、思い通りにならない他人は「非常識な!」となるわけです。


だから常識や常識のない相手に対する怒りとは、一度疑ってかかるべきだと私は考えます。


そもそも相手に対して怒るのも、相手に対して自分の期待や願望を無自覚に押し付けて、それが叶わないからなので、他人は「家庭環境やルールや宗教や脳内OSが自分とは最初から異なる人」と考えると楽になれます。


 つまり他人を路傍の石や道を歩いてる犬だと思えば、彼から不躾な言葉を投げかけられても、「ああ、共通言語を使っているだけで、『死ねクソボケ』という言葉も彼にとっては舌打ちの言語化程度か。彼は私のような人間とは言語の異なっていて、犬が吠えてる」と考えると楽になれます。


 なに、どんなことを考えても、内心の自由憲法で保証されてますし。

 
 それでも、尊敬できる人は尊敬します。私が犬や石ころと同じと考えるのは、暴言を吐いてしまう人に限ります。


 海外では人種差別や宗教差別が半ば日常的に起きていますが、日本でもシーシェパードグリーンピースといった「白人とは食習慣の異なる非常識な」黄色人種に対する差別が国全体にぶつけられています。

 

 たとえ鯨やイルカを食べてなくても、「それを看過したり、同じ人種というだけでお前たちは野蛮(非常識の類義語)で罪(これも非キリスト教という意味)深いのだ」と言えるので便利ですね。

 

 日本国内でも、ある種の政治運動や、被災者への風評被害が起きてますが、あれも自分たちとは異なる人々を否定したいだけです。

 

 以前うつ病にかかったある人を親戚のおじさんが「うつ病は甘えで心が弱いだけ」と、自分とは違う人に差別の槍をぶつけてたのに、自分もうつ病にかかると「誰にも自分の苦しさをわかってもらえなくてつらい」と、自分の常識とは異なる非常識な世間への恨み言を口にするわけです。


 他にも電車内でスマホをいじってた人に正義感から包丁を突きつけた人や、株式投資にのめり込みすぎるあまり、納税を面倒がって無意識で脱税した人に裁判長が激昂した件も、「この非常識な!」という気持ちと自分の心理状態が絡んでくるわけです。


ニュース30over : 「巨額脱税…でも生活費は月5万円」ネット株億万長者が法廷で〝清貧〟アピールも…裁判長「感覚ズレている」と一喝 - ライブドアブログ

 

 裁判長の場合は、自分とは脳内OSが異なる人の実在を信じられず、被告の発言内容が自分をバカにしているように受け取ってしまうと予想されます。

 

 ここで裁判長は、特に抗弁もせずに、裁判長の言われるままに頷いているのに、屁理屈(裁判長にはそう見える)を言う被告に対して、無慈悲な教師としてのポジションを得てしまっているわけです。


 裁判長の内心を予想すると「今まで私の前に引きずり出された人間はたとえ演技にしても、皆殊勝な面持ちで現れ、罪を軽くしようとしたり罪を否認しようとしてきた。だのに目の前の男はなんだ。私を恐れようとも、認めようともしない。私は裁判長なんだぞ。私のさじ加減一つでお前の罪の軽重さえも自由にできるんだぞ。なのに、なぜコイツは私を恐れもせずに、こんなふざけたことばかり口にするんだ!」

 

 しかも、裁判長の目の前にいるのが、裁判長の生涯収入を超える金額を、面倒くさいという理由だけで無自覚に脱税してしまい、生涯収入を超える追徴金をサラッと支払うと言い放つ、金銭への執着をまるで持たない人間なので、自分の損得や命を考えてないアカギを見てる気分なわけです。

 
 裁判長の恐怖と焦りも何となく見えてきました。


 裁判所という、人が泣き崩れたり、嘘や演技を行う場所で、天文学的な取引を行う人間の、巨額の脱税という罪を犯した動機が「面倒くさい」なんて信じられないし、認めたくないわけです。

 

 もしそれを認めてしまえば、自分の半生を否定することになるため、彼は被告の主張を信じられないし、もし本当ならば整合性がありすぎるだけに、受け入れがたいわけです。

この二人の出会いは、およそ出会ってはいけない者同士が不幸にも出会ってしまった一例ですね。