ビリギャルという名の金持ち 若しくはシンデレラ

・ビリギャルという一発逆転を望む社会

 

 ビリギャルが人気と聞いてますが、社会的階層が次第に固定されて、一発逆転が可能とされてきたスポーツ界隈でさえ、そうした貧しい階層にある人の一発逆転は不可能に近くなりつつあります。

 

 そこら辺については、「巨人の星」「あしたのジョー」は存在しても、「プロテニスの星」「フィギュアのジョー」が存在しないことからも明らかです。

 

 イチロー選手も絶賛する、投げてよし打ってよしの日ハムの大谷選手は、社会人野球選手だった父とバドミントン選手の母のスポーツ一家に生まれている時点で既にサラブレッドなのに、幼いころは特に野球選手をさせるためではなく、体幹や体機能を高めるために体操をさせていたという話です。

 

 つまり、「お前は巨人軍の星になるのだ」と幼い子供の体をギプスで締め付けて、子どもの適性を考えずに自分の決めつけたピッチャー道だけを歩ませようとした発想力のない貧乏人の星一徹の家庭に生まれた時点で、星飛雄馬は詰んでいたのです。

 

 ・ビリギャルの背後

 

 ビリギャルの場合も実のところ同じで、シンデレラ同様、立派な塾に通える親の経済力がないと詰んでしまっているわけです。

 

 そもそもビリギャル自身が、中高一貫進学校のビリに過ぎなかったのです。

 


Disney's Cinderella Official US Trailer - YouTube

 

 シンデレラの場合にしても、彼女が母の死に目に貰ったハシバミの木が、実のところ管財人(後見人)を意味していたのです。

 

 

灰かぶりの母が「願い事があったら揺すりなさい」と言ったの木は「はしばみ」という木です。
この木は子供が生まれた時「生命の樹」としてよく植えられました。
はしばみには、ある種の呪術があると考えられていました。
フランク時代、土地等所有物権の譲渡に当たり、新しい所有者に草木や小枝を渡
しています。
そこから小枝には「分け与える」という意味があるのです。
ですから、灰かぶりが母から木を受け取ったことは、母の遺産を受け継いだことを示しています。
そして、はしばみの木が何年か経って大きな樹木に成長するのは、
その遺産が母方の管財人の手で運用され、大きく増やされたこと
を暗示しているのです。
灰かぶりに素敵なドレスや、馬車が与えられたのは魔。法使いのおかげ
ではなく、彼女の名付け親(後見人)のおかげなのです。
 

 

 

 

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)

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 直接は関係ないですが、童話の背景分析が得意な方です

 

 シンデレラにしても、「月光条例」で富士鷹ジュビロ先生がなんとか自分なりの解釈をしようとして、彼女を「単に運が良かっただけの女性ではない人」西用としてましたが、そもそもシンデレラのモデルに成った人は、フランスのポンパドゥール夫人だったのです。

 

 彼女の父親は職人でしたが、彼女に立派な「教養」を身につけさせて、彼女を見初めた国王によって、上流階級に入り込んだのです。

 

 すると、地獄のような結論がそこに待っています。家がお金持ちや教育を施せるだけの環境にない場合、シンデレラやビリギャルの一発逆転は不可能だと。

 

 本当にそうでしょうか。

 

 では、そうでない人が救われる話を見てみましょう。

 

星の金貨マッチ売りの少女

 


星の金貨 (Heaven's Coins) グリム童話 福娘童話集Aminated.avi ...

 

 星の金貨の場合、世間知らずの少女の両親や縁者が死んでしまい、神様だけを信じていた彼女は、世間の人間に寄ってたかって食い物にされて、裸にされて森のなかで孤独に死ぬ話を、「最後に神様が奇跡を起こしてくれました」と改変しているわけです。

 

 同じことはマッチ売りの少女にも言えます。

 

 アンデルセン

 

 若き日のアンデルセン死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話という媒体を通して訴え続けていた事が推察できる。しかし、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術がある事を作中に書き出していくようになっていく。

 

 とあるように、貧困層は死ぬことにしか幸せを見いだせないという現実を抉り出し、それに対して社会が無関心であることを晒していたわけです。

 

 例えばマッチ売りの少女にしても、小汚い格好でマッチを売る子どもは19世紀のヨーロッパでは珍しい存在ではありませんでした。

 

 昨日読んだばかりの19世紀を舞台にした「パラケルススの娘」のヒロインも同じ環境で育ち、飢えた子ども達を穴の中に放り込み、文字通りの蟲毒法で共食いさせて生き残らせるというひどい環境で育っています。

 

 

パラケルススの娘〈1〉 (MF文庫J)

パラケルススの娘〈1〉 (MF文庫J)

 

 

 

 

 

  •  私の結論

 私の結論から言えば、貧困層の中年男性に於いては、少女よりも社会的に救われ難い存在であるため、「個人的」に「普通であろうとして」救われることを求めてもそれは叶わないという結論が出てくるわけです。

 

 戦前戦後の、生きるか死ぬかの価値観だと「長生きしたものが勝ちだ」「うまいものをくったりいい女を抱いたものの勝ちだ」でしたが、実際に長生きしている方を見ていると、果たして幸せなのかどうかが疑わしい事例を沢山私達は見ています。

 

 また、ビクトリア朝のイギリスとは違い、今はネット環境や安全な食事など、いろいろ恵まれています。ただ「比較」することで「自分は不幸だ」と思い込んでしまうというのはあると思います。

 

 最近だとFIFAの関係者が、豪奢な生活を送っていたということが取り沙汰されていますが、あれも職権濫用とはいえ「比較」することで、怒りを感じていると思わされているわけです。

 

 海の向こう側の、一生会うこともないであろう人間を憎んだところで、なにか自分にとって幸せになれる要素があるとはとても思えませんが、義憤を叫ぶテレビはそれを取り上げたがります。

 

 別に私は厭世的になればいいと言いたいのではなく、金持ちでもない人間がしあわせになろうとした時に、一発逆転を求めるということ自体が、幸せから遠ざかることを意味するのではないだろうかという疑念を抱いているのです。

 

 一発逆転を描こうとした場合、ビリギャルやシンデレラみたいな金持ちが「実は一発逆転でした」と欺瞞をしてしまうだけに。

 

 アンデルセンの時代の貧困層が幸せになろうとした時に、死ぬことしか救いがないという価値観に対しては、19世紀から21世紀になったことによる環境の変化でまた違う回答が出せるのではないかと考えてます。

 

 それが一体何なのかは私もまだ回答を出しきれていませんが、多分何かがあるとは思います。ただ、「普通」という生き方を求めても、それは得られないと思います。そこで「シンデレラ」「ビリギャル」という生き方を求めない、という事こそが幸せに繋がるのかもしれないと、私は考えます。

 

 「まどか☆マギカ」のQBが、夢を求める少女を食い物にするように、社会が夢を送り続けるのは、もしかして、とは思います。