ミスターサタンが地球の救世主になった理由
前回のエントリの『ドラゴンボール』のブログの続きです。
今からご紹介する文面は五年前に書いたものです。
あでのいさんが、ブウ編を扱われた記事を紹介されているため、過去に私が書いた記事もこの流れで便乗して紹介します。
では、始めます。
魔人ブウ編は、今までの『ドラゴンボール』と比べると,とても異質な作品でした。
具体的に言えば、ヒーローであり、主人公である悟空たちの活躍の割合が大幅に減少していることです。
そして魔人ブウを倒せるだけの元気球を作り出せたのは他でもない俗物のミスターサタンの名声によるものでした。悟空は手を上にあげて元気球を作るだけで、良い方のブウとべジータは時間稼ぎしか出来ていませんでした。
その後、ミスターサタンの協力によって元気球を作り上げた悟空は、サタンに向かってこう言い放ちました。
「サンキューサタン! お前は本当に地球の救世主かもな」
その台詞は、『ドラゴンボール』という力づくで物事を解決する物語において、物語の最後に地球を救ったのは、力づくで物事を解決する悟空達ではなく、なんの力も持っていないミスターサタンの勇気と頑張りだったわけです。
サタンを呼ぶ声
上の画像を見られるとわかりますが、べジータや悟空が声をかけても全くと言っていいほど集まらなかった元気球が地球を埋め尽くしています。サタンの呼びかけによって勇気と安心をもらった大衆が、サタンの名前を呼びつつ、地球を救おうとしているわけです。この描写だと、ほとんどサタンが主役にしか見えないところがすごいです。
セル編を悟空の父親としての駄目さを鳥山先生がクローズアップした話だとすれば、ブウ編は悟空達の無力さと身勝手さをクローズアップした話だと思います。
悟空達が無力で身勝手だと言うと怒る方もいらっしゃるかもしれませんので、正確に言いなおしましょう。強い奴と一対一で戦いたいという自分たちのポリシーや、フージョンを不格好だから拒否するという自分の都合を何よりも重視した結果、愛する悟飯やピッコロ達を失ったと言えます。
それは暴力で何事も解決でき、相手も自分たちと同じで真っ向から戦いたいと思い込んでいた想像力の無さが原因だと言いきれます。
「よ、よせっ ブウ!!! たのむ!!! それじゃ地球が…!! オレたちと戦うんだろっ!?」
と理性を持っていない敵に哀願する様はまさに無力そのものでした。
その後、界王神界で仕切り直しを行うときも、自分たちの甘さと無力さで悟飯達を失っておきながら、まだ自分ひとりの力で戦おうとしました。
そして、これからブウに殺されるであろう宇宙人たちの命を犠牲にすることを前提に話を進めていました。
「だいじょうぶ 心配すんなって あいつはここまでこれやしねえ なんか作戦を考えるさ その間犠牲になった宇宙人には悪いんだが、あとでドラゴンボールで・・・な」
ここまで他人の命や絶命の恐怖に無頓着なヒーローは、見ていてこちらが怖くなります。
そうしたヒーローの異常性を描くことに嫌気を感じたのか、鳥山先生はブウ編ではミスターサタンを中心に描くようにシフトされたようです。
少年漫画のシュクアの一つの敵と味方の暴力の強さのインフレが進むことへの一つのカウンターと、一般社会の強さの物差しとしてミスターサタンがセル編から登場しましたが、彼の 臆病で弱っちい、ただの人間がたとえ傍目には恰好悪くとも、出来る範囲でジタバタとあがくことこそが大事だと、ミスターサタンや『ダイの大冒険』のアバン先生が言いたかったことだと思います。
「みなさん、ジタバタしましょう!」
それは、『ダイの大冒険』のダイ達に比べたらはるかに臆病で弱っちい無力な人間だった偽勇者たちが、世界を救う活躍の場面を見ても明らかです。
世界を救う”弱者”
三条先生の言葉を借りれば、「始めから強い人間がただ己の才能をふるうよりも、ドジで足を引っ張るような駄目な奴が活躍する方が、主人公でもかなわない様な敵に止めを刺す一助になる。この方が読者も共感できる」と言われてますが、私も思いを同じくするものです。
余談ですが、思うにネット上のドラゴンボールのファンって、イチローのファンと何となく層がかぶってそうです。
そして、努力が才能を超えると言いながらも、サイヤ人に生まれなければ強敵を倒せないという、フリーザ編以降のどうしようもない現実を打破するためにサタンは登場したのだと思います。
「サタン、おまえは本当に救世主なのかもな」 という悟空の台詞は、べジータに対して向けられたものではなくって、臆病で非力なミスターサタンが懸命に勇気を振り絞ってべジータを救った事から発せられたものでした。
それは常に暴力で物事を解決し続けてきた悟空の限界を読者に悟らせる言葉でもありました。
弱くて臆病な小市民でもしっかりと胸を張って生きれる社会こそが、美しい社会だと私は思います。
サイヤ人や、ナメック星人やサイヤ人のハーフや悟空一行の関係者しか生きれない世界なんかは、私は御免です。 一握りの生まれつきの才能に恵まれたトップエリートしか世界を救えないという状況は、実は考えてみれば大変恐ろしい状況でもあります。
『ダイの大冒険』のずるぽんやまぞっほ達、生まれついての才能に恵まれなかった気弱で日和見で臆病で小ずるい小市民は、醜くて愚かです。そして我々に最も近い存在でもあります。だからこそ彼らは愛おしいのです。
俗物根性の偽勇者たち
才なき勇なき小市民である彼ら(サタンは名がありましたが)が、もてる勇気となけなしの力を振り絞ったからこそ、世界は救われたのです。
その点に於いては、『ドラゴンボール』と『ドラゴンクエストダイの大冒険』と、共にドラゴンの名を冠する物語は、同じ結末を迎えたことになるわけです。
だからこそダイは涙を流しながら、バーンに立ち向かったのです。力が全てではないと、弱い人間の絆の力で勝とうとしたけれども、それがかなわなかったが故に…。
「”力が正義”……常にそう言ってたな バーン!! これがッ!!! これがッ!!! これが正義かッ!!! より強い力でぶちのめされればお前は満足なのかッ!!! こんな、こんなものが正義であってたまるかッ!!!」
力が正義の一例
ポリシーよりもみんなの未来を選ぶダイ
こんなものが正義であってたまるかっ!!!
このときのダイの叫びと涙は、人間の絆や必死の努力で戦い続けたのに、バーンの圧倒的な力の前に最後には天から授かった竜魔人の力に頼らざるを得なかったことへの絶望と、ポップ達人間との決別を嘆いたわけです。
バーン「ば、化け物め」
ダイ「そうだ、お前以上のな」
バーンと対峙する、はるかに人間を超える力を持ったダイの魔獣の姿は、まさしくブウやセルたちと対峙する悟空や悟飯たちと同じ化け物でした。
「こんなもの(力や才能)が正義であってたまるかぁ」
胸を張れポップ
ダイと人間達の絆の結晶であるダイの剣が、バーンを倒す決め手となったのは、そうした現実に対するせめてもの抵抗でもあったと私は考えます。
「そして、オレたち人間の限界を超えた力があったからこそ、ダイは戦っていられる」というヒュンケルの言葉も、神々の力なき人間たちの努力は無駄ではなかったという証明でもあります。
以前北の勇者のノヴァにダイが語った言葉に、人を救おうという気持ちさえあれば、人に勇気を与えられる存在だったら、それは勇者だというのがありましたが、それは上の画像のミスターサタンや偽勇者一行も勇者足りえるわけです。
しかし、少なくとも戦う事だけに専念していて、人との絆を軽んじていた悟空達にはそれは無理なことだったのです。
それは元気球を地球の人々から集める際のエピソードが何よりも力強く語っていました。
べジータと悟空の考えの甘さ
間違った手段
上の方の画像の界王様の「…………………… な…、なんちゅう頼み方の下手なやつじゃ…」は、人というものを全くわかってないべジータへの半ば諦めにも似た界王様の呟きでした。人の生きていく姿をつぶさに見つめ続けてきた界王様からすれば、べジータの頼み方は、人との絆をまるで考えられない独りよがりなものでした。それは、「やるな、べジータ」と無邪気にべジータのアイディアに賛同する悟空も同じでした。
それ故、次回タイトルは「集まらない元気球の元気」だったわけです。悟空の「オラ達の仲間以外ほとんど気をくれてねえじゃえか」は、彼らの苦闘の結果でもあるわけです。つまり、悟空一行の闘いはだれにも理解や同意は得られていなかったと。それは次の画像の悟空の台詞が物語っています。
サタンの名声
「地球も宇宙もどうなってもいいのか!! バッキャローッ!!」
たとえどんな理由があろうとも,面識もない相手に頼む言葉で、バッキャローはアウトです。
「ダッ ダメだ! ちょっと増えただけだ なんでだ!! なんでみんなわかってくれねえんだよ!!」は、悟空が今まで紡いできた人の絆の数の少なさを痛いほど証明してきました。マジュニア戦の最後には、「ドラゴンボールのおかげでいろんな人と出会う事が出来たのです」と亀仙人に締めくくられていたのに…。
そして、俗物であるがゆえに人間というものを知り尽くしていたミスターサタンの一声と名声で、世界の多くの人々からの協力が得られました。
サタンを呼ぶ声
この画像だけ見れば、主人公よりもサタンの名前が世界中の人々から連呼されている事に気がつきます。そう、主人公の名前が連呼されるのではなく、駄目で俗物で小心者のサタンの名前が連呼されて、世界が救われるという事実に。
これと全く同じ状況が描かれながらも、主人公たちが紡いできた人と人との絆が世界を救ったケースの画像を掲載します。
世界が呼ぶ声
世界はひとつに
そして奇跡は起こり、バーンの企みは砕かれました。
知り合った人たちの…
”人間の絆”
兄や仲間に励まされるまぞっほ
『ドラゴンボール』の界王様がゴメちゃんの最後の力(あれも一種のドラゴンボールです)と同じように世界を一つにしながらも、その結果がまるで正反対なのは、『ドラゴンボール』を常に意識してきた三条先生の悪意を感じます(笑)。
世界の人々と心がつながった悟空達には何の声援も無かったのに、世界中から声援や祈りが集まる構図は、かなり意図的にやってそうです(笑)。
べジータや悟空達も自分たちの名前やビジュアルイメージを出せればよかったのですが、天下一武道会で大量虐殺を行ったべジータがいる以上、さすがにそれはきびしかったようです。
そして弱い人間だったまぞっほが、兄であるマトリフや仲間の励ましによって、勇気を取り戻して世界を救おうする弱者への優しい視線を持ち続ける三条先生の善意も。
三条先生の思惑
つまり、人と人との絆をまるで無視して、自分のやりたい事だけに専心していた悟空達には、力だけでは解決できない問題に遭遇した時には非常に脆いというお話でもあったわけです。そこら辺はミスターサタンを地球を救った英雄にしたあたりからも、鳥山先生もかなり自覚的であったと伺えます。
サタンへの賞賛
悟空達は、ブウを倒すことだけしか考えてませんでしたが、闘いの後、怯える人々の不安を解消するかのように、ミスターサタンが人々を恐怖から解放しました。
ここら辺で人の心を知り尽くしている俗物と、闘いしか知らない人間との差が出てきます。なぜなら、悟空達は自分達が助力を乞うた人々に対して礼の一つも言っていないからです。
ちゃんと礼を言っていない点ではサタンも同じですが、「諸君の協力もあって」の一言をキチンと織り交ぜるあたりが実にうまいです。
この場面を見ていたら、ふとカオスフレームという、大衆の支持をつのるパラメータの存在する『伝説のオウガバトル』を何となく思い出しました。
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しかし、悟空一行の何事もドラゴンボールを頼みにする姿勢は、まさしく『デスノート』依存症になった夜神月を思い起こさせます。その姿勢については、界王神様も、そうした姿勢への疑問を口にしています。恐らくこれは作者の鳥山先生の心の代弁でもあったでしょう。
本来はこうした主人公の姿勢への反対意見は、『るろうに剣心』や『トライガン』のように、主人公の定義に立ち向かうアンチテーゼとしての敵が出すものですが、味方サイドからそうした反対意見を呟かせる辺りに、鳥山先生の苦悩がうかがえます。
ぶっちゃけ、悟空一行によるドラゴンボールの濫用と独占ですからね。
何事もDB頼りの悟空と、対照的に人間力でブウを救うサタン
海王神「やれやれ………… またドラゴンボールか………… ふう………」
実に印象的なボヤキでした。
下の画像は、そうした濫用される便利な道具に対する回答例の一つです。
神の涙
心を持った願いをかなえる道具
この構図の違いを見ると、三条先生はよほどドラゴンボールに対して思うところがあったんだなぁと思う次第です。実際、人の命が実に軽い漫画でもありますからね。