徳を積めた人と、「得」を詰めこもうとしてパンクした人

最初に

 今日の新聞を読んで、人がほぼ同じ年代なのに、物事の考えを左右する「考え方」に出会うか、出会わないかでこれほどの差が出るのかという、悲しい事案に遭遇しました。

 

 今回のお話は、モーレツ社員を気取って頑張る内に我利我利亡者になってしまった人と、人に譲ることを覚えたことで日々を心安らかに過ごせる人との対比です。

 

神戸新聞7/20 読者文芸(14ページ)より抜粋

 

 今からご紹介する二つのエッセイは、対極的なエッセイです。まず、我利我利亡者の方のエッセイからご紹介しましょう。私が読んでてところどころ引っかかってしまった場所を赤文字にします。

 

 平田 善明 58歳会社員 市川町在住 作

 

「人生、頑張らなくていいのですか?」

 〈頑張らなくていいんです〉なんて題名の本を書店で見かけた。多分、売れているのだろう。ベストセラーか? 平積みで店頭に何十冊と並べて置いてある。

 

 著者には失礼な話だが、私はこういったたぐいの本が大嫌いだ。好きになれない。

 

「自分を好きになる方法」なる本も同様だ。

 

「人生、頑張らんとアカンやろっ!」

 

「自分を好きになる方法は自分で考えろっ!」

 

 と思わずケチを付けたくなるのである。

 

 そんな言葉で若者を甘やかすから人間が駄目になる。人間が弱くなる。

 

 私達、大人の責任も問われる。

 

 人はだれも、弱くてもいいなんて思ってはいないだろう。少なくとも男は強くなくてはいけない。強くなくては家族を守れない。

 

 ライオンの世界を見ればわかる。強いオスのもとにメスが集まる。しょせん、人間も動物なのだ。知恵を絞り出し、あせにまみれ、傷だらけになりながらも戦ってこそ明日があり、生きる歓びも見えてくるというものだ。

 

「草食系男子などと言われて笑っている場合じゃないよ、そこの男子。バカにされているんだから。 社会に出れば弱肉強食の世界が待っている」 

 

 それを教えるのが大人の責任だ。

 

 男だけでなく女も考えて欲しい。甘食系女子もいただけない。そんなにスイーツが食べたいのか? 美味しいものを食べたいという欲求を全否定するつもりはないし、私にもその欲求はあるが、それが生きることの全てではないだろう。そんな時間があるなら美味しい料理の作り方の一つでも覚えたほうが、人生が充実すると思うのだが。

 オマケに、何を見ても「かわい~」って、やめてほしい。そんな曖昧な一言で物事を片付けるんじゃない。他に言うこと無いのか?と言いたくなる。

 

「勘違いするんじゃないよ、世の男性諸君。女は男に可愛さなんか求めてはいない。強い男を求めていることを努々忘れてはいけない」

 

 こんなことを言うと、「フル~イ」などと言われてしまうけど、人生を楽しみたければ頑張るしか無い。本当の感動が欲しければ頑張るしか無い。

 

 私が言いたいのは、男も女も自分のために頑張ろうということ。やっぱりね、頑張らなければ未来は見えない。迷路に迷い込んだままの人生なんて真平ゴメンだ。イチローも錦織も頑張ったから人生が充実しているんだと思う。

 

 私は名もなく、金もない市井の人間だけど、それなりに頑張って生きてきた。

 

 二十代で大恋愛をして駆け落ちをした。

 

 当時、私は相思相愛に憧れていた。自分が他人を好きになることは、小学生の頃からの経験で痛いほど分かっていた。

 

 けれど他人からも好きになられ、お互いが好き同士になる感覚ってどんなだろうと憧れ続けていた。そんな時、私の前に彼女が現れた。

 

 十八歳の社会人。私は二十四歳だった。

 

 一目見た時から好きになったが、すぐに声をかけるのも品がないと思い我慢してたら、二度目に会った時に、彼女から話しかけてきた。

 

 早々に初デートの約束にこぎ着け、その後は彼女中心の生活が始まった。仕事場では残業お断り。休日出勤とんでもない。ともだちとの遊びの約束はできるだけ避けた。貯金をはたいてドライブように車を購入。彼女のためにフランス料理のフルコースも初体験した。

 

 その甲斐あって、一年後には結婚を前提に付き合うことの承諾を彼女から得たが、私の何処が悪かったのか、彼女の両親の猛反対に遭った。そこで実行したのが駆け落ちだった。

 

 しかし、翌日には彼女が家に帰りたいと言い出した。親に心配をかけたくないというのがその理由だった。仕方なく私は彼女の家に生き詫びを入れた。私は彼女のお父さんとお母さんに泣いて謝った。

 

「あんたは、未成年の女の子を誑かして拉致同様のことをしたのだ」

 

 と責め立てられた。私は、ただただ泣いて謝ることしかできなかった。

 

 でも、それが男としての失点となった。

 

 彼女の私に対する態度が、その日を境に一変した。恋愛感情が一気に覚めたようだった。一泊二日の逃避行はあっけなく終わり、私達は別れた。

 

 やはり男は女の前では決して涙を流してはダメなのだと悟った。

 

 今、思い返しても苦い思い出だが「結構、頑張ったよな」と自分に言ってやりたい思いもある。

 

 三十代で私は大乱闘の末、前歯二本をなくした。

 

 当時私は会社の研修で宿舎生活をしていた。退屈だったので、夜中に宿舎を抜け出し繁華街に出た。そこで五人のチンピラ集団に喧嘩を売られた。多分、物珍しげにキョロキョロしながら歩いていたのだろう。田舎者丸出しだ。あげく不良たちの餌食になった。

 

「どこ見て歩いとんじゃ」がチンピラの第一声だった。ぶつかって来たのはチンピラの方だ。理不尽な言いがかりだった。ここで逃げる訳にはいかない。

 

 売られた喧嘩は買わなければ男ではない。空手の覚えもある。がむしゃらに応戦した。私の下段蹴りと肘打ちでチンピラ野郎の二人が膝をつき戦意をなくしたのがわかった。残るはあと三人。と思った時、パトカーと救急車がけたたましいサイレンを鳴らしてやってきた。

 

 チンピラ五人は一目散に逃げた。取り残された私の上着は血で真っ赤に染まっていた。前歯がなくなり、口から血が流れていた。私が救急車に乗ることを拒否すると、パトカーで警察署に連れて行かれた。簡単な事情聴取を受け、私は警察署を後にした。前歯はなくしたが男の誇りは守った、私は頑張ったのだと、一人納得した。(引用者注 さすがに突っ込まざるをえない。無断で外出して、現地の人間の諍いを起こして会社の担当者に迷惑をかけて、何が男の誇りだ。頑張りが全部勘違いになってますがな)

 

 私は悪ではない。暴走族でバイクのワッパを握る時間はなかった。バイクより耕運機で田んぼを耕した。家業を手伝わなければオヤジに張り倒された。雷親父が、私の非行を思いとどまらせたと思う。(単純に、オヤジにびびってただけでは……)

 

 四十代、私は仕事バカになっていた。チンタラしている役職者は降格させ自主退職に追い込んだ。仕事のできない人間は辞めれば良いと思っていた。降格を通知された先輩社員は涙を流しながら、震える手で辞表を書いた。

 

 私は、それも自業自得と、冷ややかな目で見ていた。今から思えば非情なことをしたものだと思う。長年勤めた会社を定年前に辞めさせられる屈辱と家族の苦悩を、その時の私には思いやる優しさはなかった。その報いはやがて、私にもやって来るのだが、その頃の私は間違いなく、仕事に頑張っていたと思う。(頑張ったを自己正当のためのマジックワードとして多用しているが、実際には頑張ったという言葉に実態はない。また、彼は自業自得と言いながらも、自分の残酷な意思のもと、先輩を辞めさせただけなのだが、実際は体よくリストラに利用されただけで、のちに自分も直ぐにリストラされただけという気がします)

 

 五十代前半、頑張った甲斐あってか、私は五十歳で支店の長になった。(五十代前半と五十歳が矛盾しているので、推敲してないと思います)支店のトップだ。特別速い出世でもないが、遅くもない。

 

 高卒にしては順調な会社人事を歩んでいた。誰にも負けない。そんな思いあがりの絶頂期を迎えていた。しかし人生、順風満帆とはいかない。

 

 五十代後半、定年を二年後に控え、あろうことか副店長が会社の金に手を付けた。直属の部下の横領だった。指導監督過怠。私は管理者失格の烙印を押され、会社を追われた。(多分、横のつながりが弱い我利我利亡者だったので、先輩社員をリストラに追い込んだ件も含めて、人望はゼロだったのでしょう。庇ってくれた人もいないみたいですし)

 クリスマスイブに会社が私に突き付けたのは”諭旨解雇”の文字だった。〈コレは私の推測ですが、クリスマスに諭旨解雇を食らうということは、恐らくはこの筆者も金を横領していて、それを部下が真似したのではないでしょうか。この手の「俺は頑張ったから何をしても許されるはずだ」というタイプは倫理観が薄い可能性が高いですし、普通は支店長を降格もなしに諭旨解雇するなんて考えられません)

 

 その日から私の放浪の日々が始まった。

 

 度に出たわけではない。心が、見えない未来の迷路の中をさまよっていた。(本人は冒頭部で「迷路に迷い込んだままの人生なんて真平ゴメンだ。」と言ってました。あれ?)

 

 深夜に目が覚め外にでると一日の仕事を終えた遮断機が常夜灯に照らしだされていた。街全体が寝静まっている。

 

 四十年近く頑張ってきた職場から、突然、絶縁状を渡され、私の心は行き先を定めることが出来ず、彷徨っていた。人生の無常が胸を締め付けた。

 

 しかし、ここで無く訳にはいかない。逃げる訳にはいかない。絶望を受け入れる訳にはいかない。

 

 私には守らなければならない妻がいる。子どもたちにくじけない生き方を教える義務がある。(部下に人望がないこの方が、子供や妻にどんな目で見られているか、また相談を全くした様子もないこの人の家庭が何となく伺えます)

 

「がんばらなくていいんです」なんて口が裂けても言えない。

 

 人は艱難辛苦の中で生きている。泥水に顔を突っ込まれ、「助けてくれ~」と泣き叫ぶより、「クッソ~、負けてたまるか」と踏ん張って生きていきたい。自分が生きてきた価値は自分で決める。頑張らない人生に価値があるとは到底思えない。(もはやツッコミ疲れましたが、この方に「頑張るってどういう意味ですか」と尋ねても「頑張るって、頑張るってことだよ」というトートロジーが返ってきそうです)

 

 自分を大切にしたい。自分自身を好きになったままで死んでいきたい。 

(「自分を好きになる方法」なる本も同様だ。

 

「人生、頑張らんとアカンやろっ!」

 

「自分を好きになる方法は自分で考えろっ!」

 

 と思わずケチを付けたくなるのである。は何処に行った?)

 

 

 人間は一人では生きていけない。それは分かっている。他人からの優しい言葉は生きる力になる。私も他人から励まされ生きる力を得て生きてきた。

 

 空虚な心を埋めてくれたのは友だった。(其の割に困ったときには出てきませんな)

 

 言葉の悲しみを癒してくれたのは妻だった。

 

 心が折れそうになった時、子どもたちの顔が浮かんだ。 

 

 それでも、最終、頑張るのは、頼りにするのは自分なのだと私は思う。

 

 死に際には、共や妻や子どもたちに「ありがとう」と言うだろう。

 

 そして、最後の一言は、自分自身に「よく頑張ったな」と言ってやって、あの世に逝きたいと思っている。

 

 せめて自分だけは自分を褒めてやりたいと思う。(つまり誰からも褒めてもらえなかったし、頑張りを認めてもらえなかったと。また、自分で自分を褒めるって、それは彼の嫌いな女子の論理ですがね)

 

 私は、そんな人生の最終章を送りたい。

 

 ライオンのオスは戦うことを恐れない。〈勝ち目のない戦いや、無益な戦いはしないけどね)

 

 しかし、戦いを好まない。

 私は戦いの強敵は自分の心の中にあると思う。頑張る自分は好きになれる。

 だから「人生、本当に頑張らなくていいのですか?」と思ってしまう。

 

 総評

 

 自己正当化のオンパレードで、頑張るという言葉を多用しすぎているため、ガンバルのゲシュタルト崩壊を起こしています。文章を書いたことのない人って、こんな文章や矛盾を平気で書けるのだな、とある意味感心します。

 

 この方は一度、「頑張らなくてもいい」という本を読んで見る必要があると思います。でないと、いつかボキッと折れます。

  実際、頑張っても若手の場合、リターンが少ないのと、見返りがなくても日々のコツコツを出来るようにというだけのお話だったり。つまり、見返りありきで頑張った結果、筆者は心が折れてしまったわけでして。

 

 彼は「頑張る」という言葉を信仰として、「頑張る」という言葉を盾に、他人を蹴落としたり、他人に対する慈悲の気持ちを持たない残酷な人間に成り果てていたわけですが、自分が悪いことをしたという自覚もなしにリストラを行っていた辺りが、実に無慈悲でオー、ブッダと言いたくなる次第です。

 

頑張らずに徳を積むことを考えた人のエッセイ

 

 では次に、全く同じ誌面に載っていた、ほぼ同年代の方のエッセイです。実に読みやすいのは、彼の生活階層の違いが露骨に現れていてなんとも残酷です。

 

 「積徳運転」       

            山本利秋 64歳 社会保険労務士 神戸市北区在住

 

 

 相当以前のことになるが、奈良県へ来るまで行くと、歩道橋などに「積徳運転」なる看板が掲げてあるのをよく見た。交通安全標語と思われるが、他府県では見かけないので印象に残った。

 

 交通安全標語と言えば、「飛び出すなクルマは急に止まれない」や「せまい日本そんなに急いで何処に行く」など語呂がよく、内容もなるほどというものが多い。

 

 それに比べて積徳運転とは一体どんな意味なのだろうか。奈良は名刹が多く、そこには徳を積んだ僧侶も多いからなのだろうか。

 

 最初は次のように考えた。

 

 積徳とは徳を積む事。つまり子どもやお年寄りに注意をはらい、スピードは控えめに、安全で徳のある運転をしてください、ということだろうと……。

 

 長年頭から離れないでいた積徳運転だが、最近こうではないかと思うようになった。

 

 つまり、凡人がクルマを運転すると、他人の乱暴な運転に腹を立て、車間距離を詰められれば怒り、よろよろ走る自転車に苛立つ。しかし、実はこれらは車の運転をするものに課せられた試練ではないのかと……。

 

 クルマの運転を修行と捉え、運転から生じるさまざまな試練に、真摯に対応することこそ積徳運転ではないかと思うに至ったのである。

 

 他人の乱暴な運転に対しては、それに反発するのではなく、彼の事故を心配する。車間を詰められれば、急いでいるのだなと思い道を譲る。不安定な自転車には停車して行き過ぎるのを待つ。そんなことが出来るのか、と最初は思うが、一度自分の態度を決めると、存外出来るのである。

 もちろん、他人の運転だけでなく、まず自らの運転を改めなければならないのは言うまでもない。例えば次のようなことだ。 

  私は毎朝の車通勤時、渋滞している車列に脇道から入っていかなければならない。以前は車列の間隙を見つけて、半ば強引に自車を割りこませようとした。すると意地でも入れるものかと邪魔される。しかし、最近は方向指示器を点滅させて、車列から少し離れ、五~六台あとに入れてもらえば良いという気持ちで待つことにした。

 

 すると不思議なもので、相当の確率で道を譲ってくれるのだ。積徳運転に見返りを求めてはいけないが、これは功徳なのかもしれない。

 

 奈良県のこの標語が、私の言うような意味で作られたのではないと思うが、見るものによって自由に解釈できる「積徳運転」は、一般の標語に比べて懐が深い。

 

 松下幸之助は「人間として一番尊いものは徳である」と言ったが、毎日の運転でその徳を積み上げることが出来るのならば、この標語に感謝しなければならない。

 

 今でもこの標語はあるのか、久しぶりに大和路へ出かけたくなった。

 

 総評

 

 何も言うことはありません。先ほど紹介した「頑張らなければ」の人とは、余裕も相手に対する気遣いも雲泥の差です。多分、頑張らなければの人って、車を譲ることも、「勝った負けた」で判断しているのかも。

 

 

 

「~だろう、常識的に考えて」という危うさ


 「~だろう、常識的に考えて」という考え方って、とても危ういなと最近思います。


常識的に考えてとは (ジョウシキテキニカンガエテとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

 私は昨日電車の中で「非常識」な人を見かけました。「非」って言葉がつく場合、大抵は相手をdisるときに使うわけですが、何故私はその非常識な人に内心怒ったかというと、「横並びの席で手前側に座るなんて、なんて非常識な。他の人が座りにくいのに」と思ったからです。


 実に器が狭いですね。

 
 ただ、この「非常識な!」という言葉の裏には「自分とは違う彼は、私の思い通りになるべきなのに!」という無自覚な傲慢さが潜んでいます。


 常識って、各人が異なる家庭環境や異なる地域で育っている事を考えると、各人でそれが異なるわけです。


 故に二次障害の多い発達障害者は、かなりの確率で認知や常識が世間のそれと異なる可能性が高いわけで、それだけに「感謝の言葉や挨拶をきちんとしましょう」と、訓練所で指導するのだと推察されます。


 
 話を常識の持つ無自覚な傲慢さに戻しますが、その思い通りにならない「非常識な他人」に対する怒りを我慢できない時に、相手に怒りをぶつけるわけですが、その怒りにしても、ストレス負荷の高い満員電車や泥酔状態だと、その怒りの放出のハードルが下がりやすいと考えられます。


 すると、「この非常識な!」という、怒りの理屈や建て前も、自分の心理状態やストレスによって誘発されていると考える事が可能になります。

 

 つまり、自分の自由意思で怒ってるのではなく、電車に乗る直前の自分の心理状態と、電車内のストレス負荷状態によるということになります。


アンガーマネジメント 怒らない伝え方

アンガーマネジメント 怒らない伝え方


また、先ほど書いた「常識」という概念も危うくて、私の母みたいに、あまり育ちのよろしくない雲助の娘という成り上がりが、世間に出ないでなんでも自分の思い通りになる環境で育つと、思い通りにならない他人は「非常識な!」となるわけです。


だから常識や常識のない相手に対する怒りとは、一度疑ってかかるべきだと私は考えます。


そもそも相手に対して怒るのも、相手に対して自分の期待や願望を無自覚に押し付けて、それが叶わないからなので、他人は「家庭環境やルールや宗教や脳内OSが自分とは最初から異なる人」と考えると楽になれます。


 つまり他人を路傍の石や道を歩いてる犬だと思えば、彼から不躾な言葉を投げかけられても、「ああ、共通言語を使っているだけで、『死ねクソボケ』という言葉も彼にとっては舌打ちの言語化程度か。彼は私のような人間とは言語の異なっていて、犬が吠えてる」と考えると楽になれます。


 なに、どんなことを考えても、内心の自由憲法で保証されてますし。

 
 それでも、尊敬できる人は尊敬します。私が犬や石ころと同じと考えるのは、暴言を吐いてしまう人に限ります。


 海外では人種差別や宗教差別が半ば日常的に起きていますが、日本でもシーシェパードグリーンピースといった「白人とは食習慣の異なる非常識な」黄色人種に対する差別が国全体にぶつけられています。

 

 たとえ鯨やイルカを食べてなくても、「それを看過したり、同じ人種というだけでお前たちは野蛮(非常識の類義語)で罪(これも非キリスト教という意味)深いのだ」と言えるので便利ですね。

 

 日本国内でも、ある種の政治運動や、被災者への風評被害が起きてますが、あれも自分たちとは異なる人々を否定したいだけです。

 

 以前うつ病にかかったある人を親戚のおじさんが「うつ病は甘えで心が弱いだけ」と、自分とは違う人に差別の槍をぶつけてたのに、自分もうつ病にかかると「誰にも自分の苦しさをわかってもらえなくてつらい」と、自分の常識とは異なる非常識な世間への恨み言を口にするわけです。


 他にも電車内でスマホをいじってた人に正義感から包丁を突きつけた人や、株式投資にのめり込みすぎるあまり、納税を面倒がって無意識で脱税した人に裁判長が激昂した件も、「この非常識な!」という気持ちと自分の心理状態が絡んでくるわけです。


ニュース30over : 「巨額脱税…でも生活費は月5万円」ネット株億万長者が法廷で〝清貧〟アピールも…裁判長「感覚ズレている」と一喝 - ライブドアブログ

 

 裁判長の場合は、自分とは脳内OSが異なる人の実在を信じられず、被告の発言内容が自分をバカにしているように受け取ってしまうと予想されます。

 

 ここで裁判長は、特に抗弁もせずに、裁判長の言われるままに頷いているのに、屁理屈(裁判長にはそう見える)を言う被告に対して、無慈悲な教師としてのポジションを得てしまっているわけです。


 裁判長の内心を予想すると「今まで私の前に引きずり出された人間はたとえ演技にしても、皆殊勝な面持ちで現れ、罪を軽くしようとしたり罪を否認しようとしてきた。だのに目の前の男はなんだ。私を恐れようとも、認めようともしない。私は裁判長なんだぞ。私のさじ加減一つでお前の罪の軽重さえも自由にできるんだぞ。なのに、なぜコイツは私を恐れもせずに、こんなふざけたことばかり口にするんだ!」

 

 しかも、裁判長の目の前にいるのが、裁判長の生涯収入を超える金額を、面倒くさいという理由だけで無自覚に脱税してしまい、生涯収入を超える追徴金をサラッと支払うと言い放つ、金銭への執着をまるで持たない人間なので、自分の損得や命を考えてないアカギを見てる気分なわけです。

 
 裁判長の恐怖と焦りも何となく見えてきました。


 裁判所という、人が泣き崩れたり、嘘や演技を行う場所で、天文学的な取引を行う人間の、巨額の脱税という罪を犯した動機が「面倒くさい」なんて信じられないし、認めたくないわけです。

 

 もしそれを認めてしまえば、自分の半生を否定することになるため、彼は被告の主張を信じられないし、もし本当ならば整合性がありすぎるだけに、受け入れがたいわけです。

この二人の出会いは、およそ出会ってはいけない者同士が不幸にも出会ってしまった一例ですね。

ネット上の私に意見するものは、まだ人間じゃない

 

タイトルはディックの短編から。

 

 

まだ人間じゃない (ハヤカワ文庫 SF テ 1-19 ディック傑作集)

まだ人間じゃない (ハヤカワ文庫 SF テ 1-19 ディック傑作集)

 

 

 

目に見えないから、人間じゃない。
目と耳と鼻と口を持って、唾を飛ばしながら目を見て話してくるから、相手は人間だ。

だから、目も耳も鼻も口も「見えない」ネット上の書き込みは、また、ずっと、人間じゃない。


「どうせ向こうは知らない相手だから、好き放題に相手の悪口を書いたらいいじゃない」


以前、リア充寄りの友人が、ネット上の書き込みに対して、その書き込んだ相手を人間だと思って扱おうとした私に対して放った言葉です。


彼はリア充寄りであると同時に、形而上の差別を嫌うネット世間の人々と違って、己がマジョリティであるという安心を以て、「世間並み」に差別的な人でした。

 

だから彼の言葉は己が間違っておらず、多数派であるという安心から来る強さがあるため、堂々と世間並みに差別的であったわけです。

 

彼はネットの通信対戦の出来るカルドサーガのネット対戦をプレイしている時にも「どうせ向こうとは会わないんだから、悪口を書き込んだりボイスチャットで『バーカ』と言えばいいのに」と私に囁きました。

 

後に彼がカルドサーガを最初からプレイしようとして、私のデータを全部消してしまい、慌てて逃亡したのも、そうした軽率さと関係があったのでしょう。

 

迷いが無くて、自信のある人ほど、行動力がある分、軽率さからくる過ちも多いでしょうし、その穴も持ち前の行動力でカバーしたり逃げたりするでしょう。

 


往々にして逃げずに責任を取る人って、上記した人と正反対の、大石蔵之介みたいなタイプでしょうから。

 

ただ、そんな彼は世間的な人であるが故に、ネットに特化した天然炎上体質の私とは違う形で炎上を招くと想像されます。

 

よく、芸能人や識者や政治家や作家がネット上の書き込みで炎上しますが、それは彼らが香山リカさんや内田樹さんみたいに閉じたサークル内の住人である以外に、モニターの向こうの存在を私の友人みたいに、人間扱いしてないから炎上するのかもという疑念が浮かびます。

 

リア充寄りの、コミュニケーション能力に長けた人は、友達付き合いを大事にしますが、皆が皆、友達を大事にしているわけではありません。

 

立ち回りがうまかったり、いざという時に逃げを打てる要領がいい人は、ロンブーの敦さんや久米宏さん、オタキング的な要素を持ってるように私には感じられます。

 

「ネットのみんな、初笑いはどうだったかな」

 

そんな人たちは、恐らく無自覚にネット上の人々を見下してるか、人間扱いしていない仮説が私の中にあります。

 

すると、自分の意見を否定したり罵倒する相手を、ネトウヨや「気持ち悪いネットの住人」と「差別」して、自分を保って安心している可能性があります。

 

いや、自分の精神を嫌な気持ちにするものは「児童ポルノ」や「性的消費」や「在日」や「ユダヤ人」や「非国民」なのだと。

 

差別は己が安心するため、なんでしょうね。

 

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ミスターサタンが地球の救世主になった理由

 


 前回のエントリの『ドラゴンボール』のブログの続きです。

 

 今からご紹介する文面は五年前に書いたものです。

 

 あでのいさんが、ブウ編を扱われた記事を紹介されているため、過去に私が書いた記事もこの流れで便乗して紹介します。

 

 では、始めます。

 

  魔人ブウ編は、今までの『ドラゴンボール』と比べると,とても異質な作品でした。


 具体的に言えば、ヒーローであり、主人公である悟空たちの活躍の割合が大幅に減少していることです。


 そして魔人ブウを倒せるだけの元気球を作り出せたのは他でもない俗物のミスターサタンの名声によるものでした。悟空は手を上にあげて元気球を作るだけで、良い方のブウとべジータは時間稼ぎしか出来ていませんでした。

 

 その後、ミスターサタンの協力によって元気球を作り上げた悟空は、サタンに向かってこう言い放ちました。

 

「サンキューサタン! お前は本当に地球の救世主かもな」

 

 

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 その台詞は、『ドラゴンボール』という力づくで物事を解決する物語において、物語の最後に地球を救ったのは、力づくで物事を解決する悟空達ではなく、なんの力も持っていないミスターサタンの勇気と頑張りだったわけです。

 

 

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サタンを呼ぶ声

 

 上の画像を見られるとわかりますが、べジータや悟空が声をかけても全くと言っていいほど集まらなかった元気球が地球を埋め尽くしています。サタンの呼びかけによって勇気と安心をもらった大衆が、サタンの名前を呼びつつ、地球を救おうとしているわけです。この描写だと、ほとんどサタンが主役にしか見えないところがすごいです。

 


 セル編を悟空の父親としての駄目さを鳥山先生がクローズアップした話だとすれば、ブウ編は悟空達の無力さと身勝手さをクローズアップした話だと思います。


 悟空達が無力で身勝手だと言うと怒る方もいらっしゃるかもしれませんので、正確に言いなおしましょう。強い奴と一対一で戦いたいという自分たちのポリシーや、フージョンを不格好だから拒否するという自分の都合を何よりも重視した結果、愛する悟飯やピッコロ達を失ったと言えます。

 

 それは暴力で何事も解決でき、相手も自分たちと同じで真っ向から戦いたいと思い込んでいた想像力の無さが原因だと言いきれます。

 

 「よ、よせっ ブウ!!! たのむ!!! それじゃ地球が…!! オレたちと戦うんだろっ!?」


 
 と理性を持っていない敵に哀願する様はまさに無力そのものでした。

 

 その後、界王神界で仕切り直しを行うときも、自分たちの甘さと無力さで悟飯達を失っておきながら、まだ自分ひとりの力で戦おうとしました。


 そして、これからブウに殺されるであろう宇宙人たちの命を犠牲にすることを前提に話を進めていました。

 


 「だいじょうぶ 心配すんなって あいつはここまでこれやしねえ なんか作戦を考えるさ その間犠牲になった宇宙人には悪いんだが、あとでドラゴンボールで・・・な」

 

 

 ここまで他人の命や絶命の恐怖に無頓着なヒーローは、見ていてこちらが怖くなります。


 そうしたヒーローの異常性を描くことに嫌気を感じたのか、鳥山先生はブウ編ではミスターサタンを中心に描くようにシフトされたようです。

 

 
 少年漫画のシュクアの一つの敵と味方の暴力の強さのインフレが進むことへの一つのカウンターと、一般社会の強さの物差しとしてミスターサタンがセル編から登場しましたが、彼の 臆病で弱っちい、ただの人間がたとえ傍目には恰好悪くとも、出来る範囲でジタバタとあがくことこそが大事だと、ミスターサタンや『ダイの大冒険』のアバン先生が言いたかったことだと思います。

 

「みなさん、ジタバタしましょう!」

 

 それは、『ダイの大冒険』のダイ達に比べたらはるかに臆病で弱っちい無力な人間だった偽勇者たちが、世界を救う活躍の場面を見ても明らかです。

 

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世界を救う”弱者”


 三条先生の言葉を借りれば、「始めから強い人間がただ己の才能をふるうよりも、ドジで足を引っ張るような駄目な奴が活躍する方が、主人公でもかなわない様な敵に止めを刺す一助になる。この方が読者も共感できる」と言われてますが、私も思いを同じくするものです。

 

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 余談ですが、思うにネット上のドラゴンボールのファンって、イチローのファンと何となく層がかぶってそうです。

 


 そして、努力が才能を超えると言いながらも、サイヤ人に生まれなければ強敵を倒せないという、フリーザ編以降のどうしようもない現実を打破するためにサタンは登場したのだと思います。

 

 「サタン、おまえは本当に救世主なのかもな」 という悟空の台詞は、べジータに対して向けられたものではなくって、臆病で非力なミスターサタンが懸命に勇気を振り絞ってべジータを救った事から発せられたものでした。


 それは常に暴力で物事を解決し続けてきた悟空の限界を読者に悟らせる言葉でもありました。


 弱くて臆病な小市民でもしっかりと胸を張って生きれる社会こそが、美しい社会だと私は思います。


 サイヤ人や、ナメック星人サイヤ人のハーフや悟空一行の関係者しか生きれない世界なんかは、私は御免です。 一握りの生まれつきの才能に恵まれたトップエリートしか世界を救えないという状況は、実は考えてみれば大変恐ろしい状況でもあります。


 
 『ダイの大冒険』のずるぽんやまぞっほ達、生まれついての才能に恵まれなかった気弱で日和見で臆病で小ずるい小市民は、醜くて愚かです。そして我々に最も近い存在でもあります。だからこそ彼らは愛おしいのです。

 

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俗物根性の偽勇者たち

 

 才なき勇なき小市民である彼ら(サタンは名がありましたが)が、もてる勇気となけなしの力を振り絞ったからこそ、世界は救われたのです。


 
 その点に於いては、『ドラゴンボール』と『ドラゴンクエストダイの大冒険』と、共にドラゴンの名を冠する物語は、同じ結末を迎えたことになるわけです。

 

 だからこそダイは涙を流しながら、バーンに立ち向かったのです。力が全てではないと、弱い人間の絆の力で勝とうとしたけれども、それがかなわなかったが故に…。

 


 「”力が正義”……常にそう言ってたな バーン!! これがッ!!! これがッ!!! これが正義かッ!!! より強い力でぶちのめされればお前は満足なのかッ!!! こんな、こんなものが正義であってたまるかッ!!!」

 

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力が正義の一例

 

 

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ポリシーよりもみんなの未来を選ぶダイ

 

 

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こんなものが正義であってたまるかっ!!!

 


 このときのダイの叫びと涙は、人間の絆や必死の努力で戦い続けたのに、バーンの圧倒的な力の前に最後には天から授かった竜魔人の力に頼らざるを得なかったことへの絶望と、ポップ達人間との決別を嘆いたわけです。

 

 バーン「ば、化け物め」


 ダイ「そうだ、お前以上のな」

 

 バーンと対峙する、はるかに人間を超える力を持ったダイの魔獣の姿は、まさしくブウやセルたちと対峙する悟空や悟飯たちと同じ化け物でした。


 
 
 「こんなもの(力や才能)が正義であってたまるかぁ」

 

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胸を張れポップ

 
 
 ダイと人間達の絆の結晶であるダイの剣が、バーンを倒す決め手となったのは、そうした現実に対するせめてもの抵抗でもあったと私は考えます。

 

 「そして、オレたち人間の限界を超えた力があったからこそ、ダイは戦っていられる」というヒュンケルの言葉も、神々の力なき人間たちの努力は無駄ではなかったという証明でもあります。

 

 以前北の勇者のノヴァにダイが語った言葉に、人を救おうという気持ちさえあれば、人に勇気を与えられる存在だったら、それは勇者だというのがありましたが、それは上の画像のミスターサタンや偽勇者一行も勇者足りえるわけです。


 しかし、少なくとも戦う事だけに専念していて、人との絆を軽んじていた悟空達にはそれは無理なことだったのです。


 

 それは元気球を地球の人々から集める際のエピソードが何よりも力強く語っていました。

 

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べジータと悟空の考えの甘さ

 

 

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間違った手段

 

 
 上の方の画像の界王様の「…………………… な…、なんちゅう頼み方の下手なやつじゃ…」は、人というものを全くわかってないべジータへの半ば諦めにも似た界王様の呟きでした。人の生きていく姿をつぶさに見つめ続けてきた界王様からすれば、べジータの頼み方は、人との絆をまるで考えられない独りよがりなものでした。それは、「やるな、べジータ」と無邪気にべジータのアイディアに賛同する悟空も同じでした。

 

 
 それ故、次回タイトルは「集まらない元気球の元気」だったわけです。悟空の「オラ達の仲間以外ほとんど気をくれてねえじゃえか」は、彼らの苦闘の結果でもあるわけです。つまり、悟空一行の闘いはだれにも理解や同意は得られていなかったと。それは次の画像の悟空の台詞が物語っています。

 

 

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サタンの名声

 

 

「地球も宇宙もどうなってもいいのか!! バッキャローッ!!」


 

 たとえどんな理由があろうとも,面識もない相手に頼む言葉で、バッキャローはアウトです。 

 

 「ダッ ダメだ! ちょっと増えただけだ なんでだ!! なんでみんなわかってくれねえんだよ!!」は、悟空が今まで紡いできた人の絆の数の少なさを痛いほど証明してきました。マジュニア戦の最後には、「ドラゴンボールのおかげでいろんな人と出会う事が出来たのです」と亀仙人に締めくくられていたのに…。


 そして、俗物であるがゆえに人間というものを知り尽くしていたミスターサタンの一声と名声で、世界の多くの人々からの協力が得られました。

 

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サタンを呼ぶ声

 


 この画像だけ見れば、主人公よりもサタンの名前が世界中の人々から連呼されている事に気がつきます。そう、主人公の名前が連呼されるのではなく、駄目で俗物で小心者のサタンの名前が連呼されて、世界が救われるという事実に。

 


 これと全く同じ状況が描かれながらも、主人公たちが紡いできた人と人との絆が世界を救ったケースの画像を掲載します。

 

 

 

 

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世界が呼ぶ声 

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世界はひとつに

 

 そして奇跡は起こり、バーンの企みは砕かれました。

 

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 知り合った人たちの…

 

 

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”人間の絆”

 

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兄や仲間に励まされるまぞっほ

 


 『ドラゴンボール』の界王様がゴメちゃんの最後の力(あれも一種のドラゴンボールです)と同じように世界を一つにしながらも、その結果がまるで正反対なのは、『ドラゴンボール』を常に意識してきた三条先生の悪意を感じます(笑)。

 

 世界の人々と心がつながった悟空達には何の声援も無かったのに、世界中から声援や祈りが集まる構図は、かなり意図的にやってそうです(笑)。
 

 べジータや悟空達も自分たちの名前やビジュアルイメージを出せればよかったのですが、天下一武道会で大量虐殺を行ったべジータがいる以上、さすがにそれはきびしかったようです。

 

 

 そして弱い人間だったまぞっほが、兄であるマトリフや仲間の励ましによって、勇気を取り戻して世界を救おうする弱者への優しい視線を持ち続ける三条先生の善意も。

 

 

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三条先生の思惑

 


 つまり、人と人との絆をまるで無視して、自分のやりたい事だけに専心していた悟空達には、力だけでは解決できない問題に遭遇した時には非常に脆いというお話でもあったわけです。そこら辺はミスターサタンを地球を救った英雄にしたあたりからも、鳥山先生もかなり自覚的であったと伺えます。
 

 

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サタンへの賞賛

 

 

 悟空達は、ブウを倒すことだけしか考えてませんでしたが、闘いの後、怯える人々の不安を解消するかのように、ミスターサタンが人々を恐怖から解放しました。

 

 ここら辺で人の心を知り尽くしている俗物と、闘いしか知らない人間との差が出てきます。なぜなら、悟空達は自分達が助力を乞うた人々に対して礼の一つも言っていないからです。

 

 ちゃんと礼を言っていない点ではサタンも同じですが、「諸君の協力もあって」の一言をキチンと織り交ぜるあたりが実にうまいです。

 

 この場面を見ていたら、ふとカオスフレームという、大衆の支持をつのるパラメータの存在する『伝説のオウガバトル』を何となく思い出しました。

 

 

 

伝説のオウガバトル PlayStation the Best

伝説のオウガバトル PlayStation the Best

 

 

 

伝説のオウガバトル全曲集

伝説のオウガバトル全曲集

 

 

 


 しかし、悟空一行の何事もドラゴンボールを頼みにする姿勢は、まさしく『デスノート』依存症になった夜神月を思い起こさせます。その姿勢については、界王神様も、そうした姿勢への疑問を口にしています。恐らくこれは作者の鳥山先生の心の代弁でもあったでしょう。


 本来はこうした主人公の姿勢への反対意見は、『るろうに剣心』や『トライガン』のように、主人公の定義に立ち向かうアンチテーゼとしての敵が出すものですが、味方サイドからそうした反対意見を呟かせる辺りに、鳥山先生の苦悩がうかがえます。


 ぶっちゃけ、悟空一行によるドラゴンボールの濫用と独占ですからね。

 

 



 

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何事もDB頼りの悟空と、対照的に人間力でブウを救うサタン

 


 海王神「やれやれ………… またドラゴンボールか………… ふう………」

 

 

 実に印象的なボヤキでした。

 

 下の画像は、そうした濫用される便利な道具に対する回答例の一つです。

 

 

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神の涙

 

 

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心を持った願いをかなえる道具

 


 この構図の違いを見ると、三条先生はよほどドラゴンボールに対して思うところがあったんだなぁと思う次第です。実際、人の命が実に軽い漫画でもありますからね。

我が子を道具としか思ってない、孫悟空と碇ゲンドウの共通点

今回は『ドラゴンボール』の悟空のディスコミュニケーションについて語っていこうと思います。



 

 

 

 

 

 鳥山明「悟空は子育てに興味がないんですよ、多分。父親としては完全に失格(笑)。働いてもいないですからね。悟空はただ強くなりたいだけで、他の本能はない感じなんですよ。だから興味のないことには本当に何の興味も示さない。きっと結婚も興味なかったんだと思います」


 ドラゴンボールガイド 孫悟空伝説より

 

 

 

 

 


**父親としての無条件の愛


 まず、この画像をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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   身を挺すピッコロ

 

 ピッコロが敵である悟空の子供を救うため、自分の命を捨てて盾になる場面です。


 ラディッツとの死闘で命を落とした悟空の代わりに悟飯を鍛えたピッコロが一年を共にに過ごすうちに、父性愛に目覚め、悟飯の命を救いました。


 ピッコロは悟飯をサイヤ人と戦うための道具としか考えていなかったはずなのに、最終的には自分の命を捨てて悟飯を救いました。

 

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    忌わの際のピッコロ

 

 「悟飯……オ…オレと…ま…まともにしゃべってくれたのは…おまえだけだった…。き…きさまといた数ヶ月……わ…わるく…なかったぜ……」


 「死ぬ…な…よ……悟…………飯…………」

 

 

 悟飯の命を救ったピッコロでしたが、悟飯と共に過ごした日々は、ピッコロを孤独から救っていた事が分かるシーンでした。


 それどころか、何よりも自分の命が大事だった大魔王が、他人の息子である悟飯の命を救っただけでなく、悟飯のその後を案じていました。

 
 この時点で、悟飯の中では、ピッコロは父親である悟空以上の存在になりました。


 やり方は違いますが、これと同じようなことを行ったキャラクターが他にもいました。ベジータです。未来から来たトランクスが倒された時、ベジータは怒りのあまり無謀な挑戦をセルに行いました。


 その結果、悟空一行はピンチを迎えましたが、トランクスが事後にその顛末を聞かされた時、トランクスは「父さんが…」と誇らしげな笑顔をしていました。


 ドラゴンボールを子細に眺めると気が付きますが、悟空が誰かのために身を投げ出した回数は、ベジータやピッコロに比べると絶望的に回数が少ないです。


 もっと言えば愛するわが子を救うために、彼自身が奮闘するということはまずないです(セル編のラストの悟空の行動については後で書きます。あの時の悟空の行動もためらうことなく平気で界王の命を犠牲にする辺り異常です)。


 
**非情の悟空


 
 こちらの画像をご覧ください。

 

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    悟空の非情


 バトルマニアである悟空は、戦うことが嫌いな悟飯を自分の世界に何の覚悟もないまま戦いの世界に引き入れた揚句、息子が苦しむ様を見ながら何の手助けも行おうとしませんでした。

 

 悟空は普段から笑顔ですが、彼のやっていることは「乗らないのなら帰れ!!」と実の息子を道具扱いしたエヴァンゲリオン碇ゲンドウと何ら変わりません。


 その際のゴクウの非道をピッコロが断罪します。

 
 「悟空……きさまはまちがっている…悟飯はきさまのように戦いは好きじゃないんだ…………!! その作戦、悟飯は知っているのか…」

 

 すごいダメ出しです。「悟飯がどんな気持ちかわかっているのか」って、もはやどっちが保護者かわかったものじゃありません

 

 ここで、読者は悟空が人間として、父親として致命的な欠陥を有していたことに読者は気付きます。息子と精神と時の部屋の中や休暇の間にじっくりと過ごす日々を持っていながら、息子と何ら話し合っていなかった事を。


 現代社会はディスコミュニケーションの問題がしきりと叫ばれていますが、90年代半ばの一見平和そうに見える悟空一家の内情はディスコミュニケーションの修羅場だったわけです。 


 そして悟空自身も自分が戦うのが好きだから自分の息子も同じように戦うのが好きだろうと、また子供を自分の意思で思い通りに出来ると思い上がっていた事に他人であるピッコロの指摘で気付かされます。


「…今、悟飯が何を思っているか分かるか!? 怒りなんかじゃない!! なぜおとうさんはボクがこんなに苦しんで死にそうなのに助けてくれないんだろう…」

 

 改めて文章に起こすと、悟飯の心中が思いやられて思わず涙がこみ上げてきそうです。これはセルとの戦いの場面限定ですが、この言葉はいじめにあっている子供の父への助けを求める叫びと被って見えてきます。


 この場面のピッコロの表情を見れば、直接悟空を罵倒したりはしていませんが、地球を救った英雄の悟空を、非道の限りを尽くした大魔王であったピッコロが責めている事が良く分かります。


 バトルマニアの悟空は、かつて大魔王であったピッコロにもある人間らしい心をまるで持ち合わせていなかった事を読者と悟空は気付かされました。


 戦闘時や駆け引きの際の心理描写を除けば、内心の描写はドラゴンボールはあまり描かれませんが、上の画像の際の悟空の内心はいかばかりのものだったでしょうか。


 かつてアクマイト光線を浴びた子供の頃の悟空は悪の心が全く無かった為、何の効果も無かったですが、実は悟空には人間としての、善悪両方の心が最初から無かったのではないでしょうか。善と悪の心は表裏一体です。悪の心が全く無かった悟空には善の心も無かったと考える方が自然です。


  現に、この後悟飯の苦境を見捨てて置けなかったピッコロは、自分の戦力差の彼我を無視して悟飯を助けに行こうとしました。戦闘時においては頭が切れすぎる悟空は自分の息子の命のピンチにも動こうとはしませんでしたが。


 この他にも悟空がピッコロに父親として負けている描写がありました。悟空は笑顔でしたが、本当はピッコロに嫉妬を覚えるか、悟飯に怒りを覚えていたのではないでしょうか。

 

**父親との同化を拒む子供

 

 それは精神と時の部屋で修業を終えた悟空親子が最後の戦いに挑む時に、悟飯はピッコロと同じ戦闘服をねだったことです。


 あの年代の子供は(特に精神と時の部屋でゴクウ親子は長期間を過ごしました)、本来無条件に強い父に対して憧れを抱きます。


 ましてや、現時点で宇宙最強の悟空です。 強い父親との同化意識が働いて、父親と同じ戦闘服や胴着を求めるのが筋でした。 しかし、悟飯はピッコロに服をねだりました。


悟飯「ピッコロさん、僕も格好いい服をください」


ピッコロ「分かった、格好いい服をプレゼントしてやる」 


 我々もあのシーンは自然に描かれていたので特に違和感を感じなかったでしょうが、もしいつもの悟空だったら、「どうした悟飯よぉ、オラの胴着は着たくねぇのか」と突っ込んでいたでしょう。

 

 というか、もはや我が子に「車を買って、お願い」とねだられる親そのものです。余談ですが、不遇な少年時代を過ごした鳥山明氏は、子どもに関してはベタ甘だと、単行本の柱の記事にありましたが、ピッコロやベジータの子煩悩な姿を見ていると、そうした先生の家庭の光景が目に浮かびます。

 

 
 話を戻して、改めて悟空の口調を文章にするとわかりますが、悟空の言葉使いはあまり品が良くないですね。悪い言い方でいえばヤンキーそのものです。そういえば、嫁のチチにも本人に悪気は無かったもののドメスティックバイオレンスを働く場面がありましたね。

 
 閑話休題 
 

 なぜ悟飯はピッコロの戦闘服を望んだかについてですが、悟飯は精神と時の部屋で長期間親子水入らずで過ごした悟空よりも、ピッコロに父性を感じたことが、ピッコロと同じ戦闘服をねだった理由だと思います。また悟空の強さよりも、ピッコロの優しさを悟飯が欲しがっていたからです。


 ピッコロの優しさとは父親としての責任と愛情と自己犠牲です。しかも、一度は自分の身を呈して悟飯の命を救っています。


 ナッパから放たれた気弾により訪れた悟飯の決定的なまでの絶命の危機を、ピッコロは己の命を捨てることで救いました。


 この瞬間、今まで厳しいだけの他人だったピッコロが、ご飯の精神的な父親に進化した瞬間でもありました。それはピッコロが悟飯の父親になったというだけでなく、悟飯の中でもピッコロは父親になりました。

 
 普段は厳しいが、極限状況下でも自分を無条件に助けてくれる父の存在。それがピッコロであると悟飯の脳裏に深く刻まれました。


 この行為は理屈ではありませんし、実際に命を掛けて自分を守ってくれたという事実は覆ることはありません。しかもピッコロはドラゴンボールの消滅の危機を犯してまで悟飯の命を救っています。


 対して悟空はどうでしょうか。

 
 家では母親であるチチに押し切られて修行も出来ず(悟飯の適性もありますが)、ろくに働く姿や父親らしい姿を見せていない可能性が高いです。 特に平和な時代だと、戦う機会も無かったため、悟空が父親らしい姿を見せた回数はおそらく少なかったでしょう。
 

 そして父親らしさや男らしさが発揮される機会がやってきても、その機会をピッコロに取られてしまいました。その悟空の姿勢は息子のほうをまるで見つめていなかった団塊世代の子育てと被って見えます。


 
 これは私の個人的な体験に基づく見解ですが、幼い子供は自分の危機を救ってくれた人を父親だと思い込む瞬間があります。


 今から話すことは私が幼い頃の体験談です。


 
 まだ私が幼かった頃、エンジンがかかった車の中でお留守番をしていたことがありました。


 勘の良い方はお気づきだと思いますが、気にせず続けます。


 私は運転席で車の運転手ごっこをしようとして、助手席から運転席に移ろうとしました。 古い車だったこともあり、運転席への移動の際に私は手か足かで、知らない間にニュートラル状態だったレバーをバックに入れてしまいました。


 サイドレバーは掛っていたのか掛っていなかったのかはもう覚えていませんでしたが、私を乗せた車は少しずつ後ろに下がり始めました。運転席のドアが開いていたこともあり、私の乗っている車が少しずつ少しずつ大きなドブ河に向かって落ちようとするのが見えました。


 その際に足がすくみながらも逃げようとして私は車から落ちましたが、バックする車のタイヤが4~5歳だった私の右足を轢きました。


 そして私の乗っていた車があわやどぶ川に落ちようとする間際に、私の父が入っていった建物から一人の男性が飛び出してきて、車を緊急停車させました。私はその人に向かってこう叫びました。「お父さん、お父さん!」と。


 実は父親ではなく、別の人だったのですが、私にはその人が父親のように輝いて見えました。


 結局その人はその場に居合わせたゆきずりの人だったのと、その後の怪我の治療などの騒動でそのときの記憶はかなりあやふやになりましたが、今でも裂けた跡が残る足を見るたびに、その人のことを思い出します。


 その人は間違いなく私にとってヒーローでした。


 さて、話をドラゴンボールに戻しますが、そんなピンチを救ってくれた人が父親の身近に常にいたら、ピンチを救ってもらった彼は心の中で、どちらを父親と思うでしょうか。建前は父親の悟空でしょうが、身を呈して自分を救ってくれたピッコロへの慕情は消せません。


 そうした悟飯の心の中の父親という思いや葛藤が、悟飯にピッコロの戦闘服をねだらせたのだと思います。

 

**罪悪感と贖罪


 
 そして、上に上げた画像の場面で、悟空は己が考えの甘さと父親として失格だった事を気付いて後悔しました。また悟空の稚拙な作戦は、16号の献身と自己犠牲によって悟飯の怒りを引き出す形で何とかなったとは言え、悟空の心には悟飯への罪の意識が充満していました。そしてその贖罪の意識は悟空にある行動をとらせる事となりました。


 余談ですが悟飯が16号を失った事で怒りに目覚め、好きでもない戦いに身を投じるくだりは、『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウの手口(傷だらけの綾波をシンジに見せる)とシークエンスが良く似ています。


 自分が怒りに目覚めて戦わなかった事で、16号の命が永遠に失われた事は悟飯の心に大きな傷を残したはずです(機械とはいえ現に目玉が飛び出てましたから)。
自分の無力さのために一つの命が失われたという体験は並大抵のものではありません。


  閑話休題

 

 その悟空がとったある行動とは、自らの命を以って償う事でした。その際の償いは、悟空なりに色々考えたものでしたが、瞬間移動の能力と悟空の超スピード能力を以ってすれば、界王様とバブルス君を引き連れて即座に地球に帰還する事も可能だったと私は考えてます。


 しかし悟空は自分が父親失格と考えて、己が犯した罪を償うためにあのような行動をとったのではないでしょうか。


 詰まりは「悟飯の心をまるで分かってなかったから、悟飯にあわせる顔が無かった」という理由で。


 それは、ナメック星のドラゴンボールを使えば悟空は地球に生還できたのに、敢えてそうしなかった事を考えても明らかです(物語の都合は置いといて)。


 悟空は界王様の世界で父親としての責任と役目を放棄して、永遠に戦っていられるという特典の方に魅力を感じたと言えます。


 こういう事を書いていると、段々悟空が帰宅拒否症候群に掛かったサラリーマンに思えてきました。

 

 実際悟空は、「自分が戦いたい」という目的のために、妻や子供や家庭の幸せを犠牲にしてきました。先頭ばかり描かれていたドラゴンボールの世界では、勉強がどれほどの意味があるのかは分かりませんが、悟空は常に家庭を戦いに巻き込み続けました。しかも、息子の気持ちをロクにわかってやれなかった悟空が、いまさらどの面を下げて家庭に収まれるのか。


 そうした点で言えば戦闘民族のエリートであるべジータの方が、悟空よりも人間らしくて家庭的であったと言えると思います。


 


**日常への回帰 


 セル編の最後近くで、天津飯が悟空達と袂を別ったシーンがありました。

 

 

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  バトルマニア達と別れる天津飯

 

 このシーンは妙に浮いていたように記憶していましたが、こうした親子間のディスコミュニケーションや、常に戦う事を最上に置く偏った価値観の人間たちと袂を別ち、天津飯が自分の人生を生きていこうとしたのではないかと私は考えています。


 強さだけが求められる世界でその強さが発揮できず、また悟空の家庭が崩壊する有様を見せ付けられたら、常に戦い続けるだけの人生に疑問を持つのも当然だと思います。
 
 
 天津飯の「たぶんみんなにはもう会うことがないとおもう………… じゃぁ達者でな」という永別の言葉はそうした彼なりの決意だと思います。


 普通ならばジョジョの第三部の永久の別れの言葉でもある「何かあったらまた呼んでください。すっ飛んで駆けつけますよ。それじゃあな、しみったれた爺さん、そしてそのケチな孫よ、俺のことを忘れんな」とディオとのラストバトルで足手まといだったにも関わらず、仲間を大事に思い、また大事に思われたポルナレフが口にしたようなリップサービスを行うはずです。

 
 しかし天津飯「たぶんみんなにはもう会うことがないとおもう…………」という言葉に込められた意味は、「もうお前達みたいに戦い続けておかしくなるのは御免だし、毎度毎度戦いのたびに私生活を犠牲にするのも御免だ」という意思が込められていると思います。

 

**最後に


 先日、私は自分の父と始めて膝を交えて話し合いをしました。父が懇意にしている会計士の方から父が叱責されたのがキッカケでした。


 その会計士の方は父にこう言ったそうです。


 「父親であるあなたが、息子の将来について真面目に考えなくてどうする! 世間の他人は赤の他人の面倒を見たりはしない!」と。


 この言葉を聞いて父はショックを受けたそうですが、逆に考えるとそれは、この歳まで父が家庭や家族に対してまるで無頓着だったことの証明でもあります。

 
 ですが、私の父に限らず、そうした家庭に無頓着だった父親は思いのほか多いと思います。


 そして、それの反映が『ドラゴンボール』の孫悟空だったと私は考えます。


 今の時代にもし、ドラゴンボールが連載していたとしたら、孫悟空はどのような父親像を我々に見せていたのか、ちょっと気になります。

ビリギャルという名の金持ち 若しくはシンデレラ

・ビリギャルという一発逆転を望む社会

 

 ビリギャルが人気と聞いてますが、社会的階層が次第に固定されて、一発逆転が可能とされてきたスポーツ界隈でさえ、そうした貧しい階層にある人の一発逆転は不可能に近くなりつつあります。

 

 そこら辺については、「巨人の星」「あしたのジョー」は存在しても、「プロテニスの星」「フィギュアのジョー」が存在しないことからも明らかです。

 

 イチロー選手も絶賛する、投げてよし打ってよしの日ハムの大谷選手は、社会人野球選手だった父とバドミントン選手の母のスポーツ一家に生まれている時点で既にサラブレッドなのに、幼いころは特に野球選手をさせるためではなく、体幹や体機能を高めるために体操をさせていたという話です。

 

 つまり、「お前は巨人軍の星になるのだ」と幼い子供の体をギプスで締め付けて、子どもの適性を考えずに自分の決めつけたピッチャー道だけを歩ませようとした発想力のない貧乏人の星一徹の家庭に生まれた時点で、星飛雄馬は詰んでいたのです。

 

 ・ビリギャルの背後

 

 ビリギャルの場合も実のところ同じで、シンデレラ同様、立派な塾に通える親の経済力がないと詰んでしまっているわけです。

 

 そもそもビリギャル自身が、中高一貫進学校のビリに過ぎなかったのです。

 


Disney's Cinderella Official US Trailer - YouTube

 

 シンデレラの場合にしても、彼女が母の死に目に貰ったハシバミの木が、実のところ管財人(後見人)を意味していたのです。

 

 

灰かぶりの母が「願い事があったら揺すりなさい」と言ったの木は「はしばみ」という木です。
この木は子供が生まれた時「生命の樹」としてよく植えられました。
はしばみには、ある種の呪術があると考えられていました。
フランク時代、土地等所有物権の譲渡に当たり、新しい所有者に草木や小枝を渡
しています。
そこから小枝には「分け与える」という意味があるのです。
ですから、灰かぶりが母から木を受け取ったことは、母の遺産を受け継いだことを示しています。
そして、はしばみの木が何年か経って大きな樹木に成長するのは、
その遺産が母方の管財人の手で運用され、大きく増やされたこと
を暗示しているのです。
灰かぶりに素敵なドレスや、馬車が与えられたのは魔。法使いのおかげ
ではなく、彼女の名付け親(後見人)のおかげなのです。
 

 

 

 

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)

 

 直接は関係ないですが、童話の背景分析が得意な方です

 

 シンデレラにしても、「月光条例」で富士鷹ジュビロ先生がなんとか自分なりの解釈をしようとして、彼女を「単に運が良かっただけの女性ではない人」西用としてましたが、そもそもシンデレラのモデルに成った人は、フランスのポンパドゥール夫人だったのです。

 

 彼女の父親は職人でしたが、彼女に立派な「教養」を身につけさせて、彼女を見初めた国王によって、上流階級に入り込んだのです。

 

 すると、地獄のような結論がそこに待っています。家がお金持ちや教育を施せるだけの環境にない場合、シンデレラやビリギャルの一発逆転は不可能だと。

 

 本当にそうでしょうか。

 

 では、そうでない人が救われる話を見てみましょう。

 

星の金貨マッチ売りの少女

 


星の金貨 (Heaven's Coins) グリム童話 福娘童話集Aminated.avi ...

 

 星の金貨の場合、世間知らずの少女の両親や縁者が死んでしまい、神様だけを信じていた彼女は、世間の人間に寄ってたかって食い物にされて、裸にされて森のなかで孤独に死ぬ話を、「最後に神様が奇跡を起こしてくれました」と改変しているわけです。

 

 同じことはマッチ売りの少女にも言えます。

 

 アンデルセン

 

 若き日のアンデルセン死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話という媒体を通して訴え続けていた事が推察できる。しかし、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術がある事を作中に書き出していくようになっていく。

 

 とあるように、貧困層は死ぬことにしか幸せを見いだせないという現実を抉り出し、それに対して社会が無関心であることを晒していたわけです。

 

 例えばマッチ売りの少女にしても、小汚い格好でマッチを売る子どもは19世紀のヨーロッパでは珍しい存在ではありませんでした。

 

 昨日読んだばかりの19世紀を舞台にした「パラケルススの娘」のヒロインも同じ環境で育ち、飢えた子ども達を穴の中に放り込み、文字通りの蟲毒法で共食いさせて生き残らせるというひどい環境で育っています。

 

 

パラケルススの娘〈1〉 (MF文庫J)

パラケルススの娘〈1〉 (MF文庫J)

 

 

 

 

 

  •  私の結論

 私の結論から言えば、貧困層の中年男性に於いては、少女よりも社会的に救われ難い存在であるため、「個人的」に「普通であろうとして」救われることを求めてもそれは叶わないという結論が出てくるわけです。

 

 戦前戦後の、生きるか死ぬかの価値観だと「長生きしたものが勝ちだ」「うまいものをくったりいい女を抱いたものの勝ちだ」でしたが、実際に長生きしている方を見ていると、果たして幸せなのかどうかが疑わしい事例を沢山私達は見ています。

 

 また、ビクトリア朝のイギリスとは違い、今はネット環境や安全な食事など、いろいろ恵まれています。ただ「比較」することで「自分は不幸だ」と思い込んでしまうというのはあると思います。

 

 最近だとFIFAの関係者が、豪奢な生活を送っていたということが取り沙汰されていますが、あれも職権濫用とはいえ「比較」することで、怒りを感じていると思わされているわけです。

 

 海の向こう側の、一生会うこともないであろう人間を憎んだところで、なにか自分にとって幸せになれる要素があるとはとても思えませんが、義憤を叫ぶテレビはそれを取り上げたがります。

 

 別に私は厭世的になればいいと言いたいのではなく、金持ちでもない人間がしあわせになろうとした時に、一発逆転を求めるということ自体が、幸せから遠ざかることを意味するのではないだろうかという疑念を抱いているのです。

 

 一発逆転を描こうとした場合、ビリギャルやシンデレラみたいな金持ちが「実は一発逆転でした」と欺瞞をしてしまうだけに。

 

 アンデルセンの時代の貧困層が幸せになろうとした時に、死ぬことしか救いがないという価値観に対しては、19世紀から21世紀になったことによる環境の変化でまた違う回答が出せるのではないかと考えてます。

 

 それが一体何なのかは私もまだ回答を出しきれていませんが、多分何かがあるとは思います。ただ、「普通」という生き方を求めても、それは得られないと思います。そこで「シンデレラ」「ビリギャル」という生き方を求めない、という事こそが幸せに繋がるのかもしれないと、私は考えます。

 

 「まどか☆マギカ」のQBが、夢を求める少女を食い物にするように、社会が夢を送り続けるのは、もしかして、とは思います。

私の役に立って死ねと平気で言い放つ、現代のディオ


「どうせ死ぬなら役に立ってから死ね」

「僕は人の役に立って死ねるから、無駄死にじゃないんだ」

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 この映画のキャッチコピーが「戦って(俺のために)死ね」


「私は事を(大量殺戮を)成し遂げた後に、父、ジオンの元に召されるであろう!」

「私はパプティマス様の為なら、死んでもいい」

 

 何故こうも、命が安いのでしょうか。そしてこんなフレーズが何故平気でいい鼻てるのでしょうか。

 

 今回はその辺りを考えてみたいと思います。

 

  • 役に立ってから死ね

 

 何の作品かは忘れましたが「役に立つか立たないかで、生きるとか死ぬとかなんて言うな」という、セリフは、上で列挙したセリフと正反対の想いが込められていると、私は思います。

 

  私は考えます。役に立たなければ、死ぬことに意味はないのか。

 

  いや、それ以前に役に立たなければ、生きている資格はないのか。

 

  そんな事はないと私は考えます。

 

  意味があろうが無かろうが、命は命であり、誰かの命を、他の誰かの命で贖えはしません。

 

  精神的には贖う事は叶うかもしれませんが、多分それは別の色彩を交えているため、それが叶った時、また違う意味の厄災を招くと私は考えます。

 

例  満州の権益 「今までに死んだ将兵の命を無駄にするな!」→結果はそれに倍する人員の死傷

 

 しかし何故、何かの役に立とうと、また役に立たせようとするのでしょうか。

  私は個人的に「役に立ってないと安心できない、居場所や承認の無さ」が背景にあるように捉えています。

  だから、役に立てば安心出来るため、場合によっては自分の命さえも投げだそうとするのではないでしょうか。

 

  • ディオ様の理屈

 

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ンドゥールやヴァニラ・アイスは安心するために、ディオに魂の奴隷として仕えることを選んだ

  また、何かの問題を解決するための生贄、すなわち犠牲に自ら志願することで、余人が叶えられないであろう「何者か」になろうとするケースはあると思います。

  私が好きな「ゴルゴ13」のエピソードの「二万四千年の荒野」があります。

 

 

 

 


  その回のシナリオの原作者は「マスターキートンの初期原作者であった、故勝鹿北星氏でした。
  氏は獣医漫画であるはずの「ドクターIWAMARU」の最終回で、「アウトブレイク」や「biohazard」などで描かれる、研究所パニックを描きました。

  本当にそれが好きなんですね。

  話が逸れたので本題に戻りますが、研究所の所員が高いモラルを発揮して、研究所のピンチに際して自己を犠牲にする場面は「ポセイドンアドベンチャー」の心臓が弱い老婦人の水泳や、牧師の最後の自己犠牲を彷彿とさせる感動的な場面です。

  私も若いときは「ジャイアントロボのフォーグラー博士みたいな自己犠牲を放って「何者か」になりたがっていました。それは、私が自分の人生に対して価値を見出していなかったし、居場所も安心も得られていなかったからだと、今にして思います。



  

 中々現実は上手くいきませんし、人々から感謝されたら自分は死んでもいいという考え方は、自分の人生を生きているとは思えません。

 

 そこら辺の危うい価値観の愚かさと悲しさを、「クロスボーンガンダム更迭の七人」の木星帝国皇帝の双子の弟を通して描かれていました。

 

 彼は全人類の命と、自分個人の命を引き替えにすることで、自分は尊い存在であるということにすがろうとしましたが、結果は目的も果たせずに孤独に「死にたくない」と呟きながら死んだのです。それは自分の人生を生きていない悲しさゆえでした。

 

 

 

 

 

 先ほどヴァニラ・アイスを例に出しましたが、


ヴァニラアイスVSポルナレフ&イギー - YouTube

 

 彼が原作やTV版のように、異常なまでのディオに対する執着を見せたのも、また「私が死ぬのは承太郎たちを殺してからでいい」と「役に立つこと」を過剰に意識したのも、自分を大切にできていないからではないかと私は考えます。だから「どうぞ、私の命をお使いください」と平気で自分の首を差し出せるのです。

 

 また、ンドゥールのように「私は死ぬことを恐れていないが、ディオ様に殺されることだけは恐ろしい。お役に立てないのが怖いのだ」と、ディオのための道具になることを、ヴァニラもンドゥールも望んでいるのです。

 

 そんな生き方は損な生き方であると同時に、花京院やポルナレフたちに否定されました。

 

 彼らは誇り高い男であったが故に、恐怖で魂まで屈従するような、ディオのために役立つ事しか考えられない「ロボット」みたいな生き方には耐えられなかったのです。

 

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 ポルナレフが立ち向かう相手をワタミみたいな人を奴隷のように酷使する企業と考えると、見えてくるものがあるかも

 

だからこそ、私は「(自分の)役に立って死ね」というような、利己主義を平気で言い放つような人種は危ないと考えます。

 

 別に「役に立ってから死ね」という言い方をストレートにする人はそれほど多くはありません。ですが、そこから主語を取り払って美談めいた言い方に切り替えると、自分に拠り所や安心や異場所を持ってない人は、あっさりと追い込まれてしまうのです。

 

 以下は現代社会のディオ様のセリフです。

 

「自分の店で苦しんでいる人がいるのに他の会社に転職しようとする人は、 他人によく思われたいだけの偽善者である」

 

「お金のために仕事をする。冗談じゃない。利益を求めず、ただお客様のありがとうを求めてます」

 

 彼は佐川急便という過酷な企業で、他人を己のエゴのために使い潰す事を学び、それをさらにブーストして大企業を築き上げましたが、中身としては他人を食い物にするディオでしかなかったわけです。

 

 合理主義や精神主義って、一見かっこ良く聞こえたり、見栄え良く見えたりしますが、実態は利己主義であったり、強利主義ではないかと私は考えます。

 

 理屈やスローガンとは、自分を大事にできていない人を飲み込んで食い物にする魔力を秘めています。

 

 

 昔の私は「自分は結婚できないし、子どもも残せないし、税金もたくさん収められないから生きている資格はないよね。生物学的に見ても、子孫を残せない動物に意味は無いし」と、理屈で考えて自分を追い込んでいましたが、理屈は本質的に人間を助けません。理屈やスローガンは、基本的に人を追い詰めたり、敵を攻撃するときに使われると私は考えます。

 

 だから、「生きているという事実は誰にも奪うことの出来ない権利」という大事な事実を体に刻みこんで生きていきたいと私は思います。

 

 現代の吸血鬼であるディオ達に利用されないためにも。

 

 追記

 

 

 個人的には、内田樹さんとかの「清貧であれ」と言いながらも、自分はフレンチやうなぎを食べている人種は、間違いなく現代のディオだと私は考えます。美味しんぼの福島騒動を「善意」で取り上げながらも、責任を現実に生きる福島の人々に丸投げした作者や、不安にまつわるデマの飛散を正当化する津田大介さんたちも。

 

 彼らは不安な人々に対して「(自分の)役に立て。(私の役に)立てばお前も価値はある」と言い募るのですが、それを糊塗するために「世界では」と大きな主語に自分たちのエゴを隠して、人々を使嗾しようとすると思います。