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私の役に立って死ねと平気で言い放つ、現代のディオ


「どうせ死ぬなら役に立ってから死ね」

「僕は人の役に立って死ねるから、無駄死にじゃないんだ」

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 この映画のキャッチコピーが「戦って(俺のために)死ね」


「私は事を(大量殺戮を)成し遂げた後に、父、ジオンの元に召されるであろう!」

「私はパプティマス様の為なら、死んでもいい」

 

 何故こうも、命が安いのでしょうか。そしてこんなフレーズが何故平気でいい鼻てるのでしょうか。

 

 今回はその辺りを考えてみたいと思います。

 

  • 役に立ってから死ね

 

 何の作品かは忘れましたが「役に立つか立たないかで、生きるとか死ぬとかなんて言うな」という、セリフは、上で列挙したセリフと正反対の想いが込められていると、私は思います。

 

  私は考えます。役に立たなければ、死ぬことに意味はないのか。

 

  いや、それ以前に役に立たなければ、生きている資格はないのか。

 

  そんな事はないと私は考えます。

 

  意味があろうが無かろうが、命は命であり、誰かの命を、他の誰かの命で贖えはしません。

 

  精神的には贖う事は叶うかもしれませんが、多分それは別の色彩を交えているため、それが叶った時、また違う意味の厄災を招くと私は考えます。

 

例  満州の権益 「今までに死んだ将兵の命を無駄にするな!」→結果はそれに倍する人員の死傷

 

 しかし何故、何かの役に立とうと、また役に立たせようとするのでしょうか。

  私は個人的に「役に立ってないと安心できない、居場所や承認の無さ」が背景にあるように捉えています。

  だから、役に立てば安心出来るため、場合によっては自分の命さえも投げだそうとするのではないでしょうか。

 

  • ディオ様の理屈

 

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ンドゥールやヴァニラ・アイスは安心するために、ディオに魂の奴隷として仕えることを選んだ

  また、何かの問題を解決するための生贄、すなわち犠牲に自ら志願することで、余人が叶えられないであろう「何者か」になろうとするケースはあると思います。

  私が好きな「ゴルゴ13」のエピソードの「二万四千年の荒野」があります。

 

 

 

 


  その回のシナリオの原作者は「マスターキートンの初期原作者であった、故勝鹿北星氏でした。
  氏は獣医漫画であるはずの「ドクターIWAMARU」の最終回で、「アウトブレイク」や「biohazard」などで描かれる、研究所パニックを描きました。

  本当にそれが好きなんですね。

  話が逸れたので本題に戻りますが、研究所の所員が高いモラルを発揮して、研究所のピンチに際して自己を犠牲にする場面は「ポセイドンアドベンチャー」の心臓が弱い老婦人の水泳や、牧師の最後の自己犠牲を彷彿とさせる感動的な場面です。

  私も若いときは「ジャイアントロボのフォーグラー博士みたいな自己犠牲を放って「何者か」になりたがっていました。それは、私が自分の人生に対して価値を見出していなかったし、居場所も安心も得られていなかったからだと、今にして思います。



  

 中々現実は上手くいきませんし、人々から感謝されたら自分は死んでもいいという考え方は、自分の人生を生きているとは思えません。

 

 そこら辺の危うい価値観の愚かさと悲しさを、「クロスボーンガンダム更迭の七人」の木星帝国皇帝の双子の弟を通して描かれていました。

 

 彼は全人類の命と、自分個人の命を引き替えにすることで、自分は尊い存在であるということにすがろうとしましたが、結果は目的も果たせずに孤独に「死にたくない」と呟きながら死んだのです。それは自分の人生を生きていない悲しさゆえでした。

 

 

 

 

 

 先ほどヴァニラ・アイスを例に出しましたが、


ヴァニラアイスVSポルナレフ&イギー - YouTube

 

 彼が原作やTV版のように、異常なまでのディオに対する執着を見せたのも、また「私が死ぬのは承太郎たちを殺してからでいい」と「役に立つこと」を過剰に意識したのも、自分を大切にできていないからではないかと私は考えます。だから「どうぞ、私の命をお使いください」と平気で自分の首を差し出せるのです。

 

 また、ンドゥールのように「私は死ぬことを恐れていないが、ディオ様に殺されることだけは恐ろしい。お役に立てないのが怖いのだ」と、ディオのための道具になることを、ヴァニラもンドゥールも望んでいるのです。

 

 そんな生き方は損な生き方であると同時に、花京院やポルナレフたちに否定されました。

 

 彼らは誇り高い男であったが故に、恐怖で魂まで屈従するような、ディオのために役立つ事しか考えられない「ロボット」みたいな生き方には耐えられなかったのです。

 

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 ポルナレフが立ち向かう相手をワタミみたいな人を奴隷のように酷使する企業と考えると、見えてくるものがあるかも

 

だからこそ、私は「(自分の)役に立って死ね」というような、利己主義を平気で言い放つような人種は危ないと考えます。

 

 別に「役に立ってから死ね」という言い方をストレートにする人はそれほど多くはありません。ですが、そこから主語を取り払って美談めいた言い方に切り替えると、自分に拠り所や安心や異場所を持ってない人は、あっさりと追い込まれてしまうのです。

 

 以下は現代社会のディオ様のセリフです。

 

「自分の店で苦しんでいる人がいるのに他の会社に転職しようとする人は、 他人によく思われたいだけの偽善者である」

 

「お金のために仕事をする。冗談じゃない。利益を求めず、ただお客様のありがとうを求めてます」

 

 彼は佐川急便という過酷な企業で、他人を己のエゴのために使い潰す事を学び、それをさらにブーストして大企業を築き上げましたが、中身としては他人を食い物にするディオでしかなかったわけです。

 

 合理主義や精神主義って、一見かっこ良く聞こえたり、見栄え良く見えたりしますが、実態は利己主義であったり、強利主義ではないかと私は考えます。

 

 理屈やスローガンとは、自分を大事にできていない人を飲み込んで食い物にする魔力を秘めています。

 

 

 昔の私は「自分は結婚できないし、子どもも残せないし、税金もたくさん収められないから生きている資格はないよね。生物学的に見ても、子孫を残せない動物に意味は無いし」と、理屈で考えて自分を追い込んでいましたが、理屈は本質的に人間を助けません。理屈やスローガンは、基本的に人を追い詰めたり、敵を攻撃するときに使われると私は考えます。

 

 だから、「生きているという事実は誰にも奪うことの出来ない権利」という大事な事実を体に刻みこんで生きていきたいと私は思います。

 

 現代の吸血鬼であるディオ達に利用されないためにも。

 

 追記

 

 

 個人的には、内田樹さんとかの「清貧であれ」と言いながらも、自分はフレンチやうなぎを食べている人種は、間違いなく現代のディオだと私は考えます。美味しんぼの福島騒動を「善意」で取り上げながらも、責任を現実に生きる福島の人々に丸投げした作者や、不安にまつわるデマの飛散を正当化する津田大介さんたちも。

 

 彼らは不安な人々に対して「(自分の)役に立て。(私の役に)立てばお前も価値はある」と言い募るのですが、それを糊塗するために「世界では」と大きな主語に自分たちのエゴを隠して、人々を使嗾しようとすると思います。